鎌倉散策 鎌倉公方 十六、永享の乱と将軍足利義教 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 応永三十二年(1425)二月二十七日に五代将軍足利義量が十九歳でなくなった。その年の十一月出家した前将軍義持に関東公方持氏は幕府に使者を送り、義持の猶子(養子より簡略化された物)にしてもらう事を請うている。幕府の近臣者は、あまりにも難題であるため、使者を義持に合わせることもしなかった。持氏は心底将軍の地位を狙っていた事が窺える。森重暁氏『暗の歴史 後南朝―後醍醐流の抵抗と周縁―』において、『満済准后日記』正長元年八月三日条に同年秋ごろ伊勢野北畠光正が反駁の挙兵をしているが関東の持氏と連携した可能性を指摘されている。しかし「喜連川判鑑」によると義持は持氏を猶子とすることを了承していたとし、管領畠山満家がこの事を不快として退けたため、これより「京と鎌倉不快」になったとしている。結果、義持の意向として幕府重臣者たちにより、くじ引きで決められた。

 

 『建内記』の成長元年五月二十三日条に、義円が還俗して名を義宣(義教の改名前の名)が足利氏の家督を継いだ。正長二年(1429)三月十五日に義宣から「義教(よしのり)」と改め征夷大将軍に就いた。後五月七日に「池により立った虹が口中に入る」夢を見たことで、勘解由小路在方が占い「御短命井百日兵乱」が起こると記され、五月二十五日条には持氏が上洛するとの報せが京都に伝わったときされている。今回の将軍選択に持氏は不満があったと考える。関東管領上杉憲実は諫言では留めることができないため新田氏が鎌倉攻めを企てていると自身の領地上野国から注進があったとして持氏の上洛を止めさせた。「健内記」にもみられることから、持氏と憲実の行動がすべて幕府に届けられていたと考える。憲実は、そうした持氏の行動に対し京都と鎌倉の不和を憂慮し献身的に京都への働きをしているが持氏には理解する事が出来なかった。鎌倉公方持氏は禅秀の乱とこの永享の乱は鎌倉公方持氏のあまりにも幼稚な思考とそれを咎め、支える者がいなかった。初代鎌倉公方基氏や二代氏満に至っては義堂周信と言う禅秀僧がその役割をはたしたが、持氏には誰もいなかった。

 

 六代将軍義教は、僧であったが、くじ引きで将軍となったことに対し劣弱意識が強く、その後、多くの粛清的政策を各有力大名に行った将軍である。持氏は永享四年四月二十八日、関東内での有力武将と共に結束を固める目的として、相模国大山寺造営奉賀を行っている。しかし、同年将軍義教が富士下向を幕府内で協議されていた。それを八月に知った憲実は鎌倉内で幕府が攻めてくるという雑説が広まり、関東武者の万が一の行動があれば取り返しがつかないため延期を要請している。しかし、九月十日に将軍義教は京都を発ち、富士遊覧を無事終えて二十八日に京都に戻った。これは三代将軍義満の行動と同じように鎌倉公方持氏への牽制と示威的行動である。そして、もしもの事があれば、それを理由に合戦へと突き進むことを意味していた。

 

(写真:ウィッキペディアより「紙本着色足利義教像 愛知県宮市妙興寺蔵足利義教像」、「足利義教像 法観寺蔵(環俗間もないころの姿と伝わる)」

 永享五年三月に持氏は禅秀の乱で禅秀に与した甲斐を度重なる追討を行っている。応永三十二年(1425)には再び追討を受け甲斐守護武田信重は敗れ弟信長が鎌倉府へ出府したという。そして永享二年信長が鎌倉を出奔し、甲斐国は鎌倉の管轄であったため、幕府の管轄地駿河へのがれた。持氏は幕府に信長の誅殺を要求したが、幕府は武田氏を駿河には、留めないことで治めた(『満済准后日記』同年六月六日条)。同じころ、「満済准后日記」によると駿河国守護今川家における家督継承問題で、持氏は扇谷上杉氏と関係するものを指示したが、結果幕府が支持する今川則忠が継承した。駿河は鎌倉府の管轄外でありながら口をはさんだ持氏は将軍義教にまたしても苦汁を味わった。

鎌倉の鶴岡八幡宮に持氏が奉納した願文が伝来しており、朱墨に血を混ぜて書かれたとされている(「鶴岡八幡宮文書」)。

 

鶴岡において

大勝金剛尊等身造立の趣意は、武運長久・子孫繁栄・現当二世安楽のため、殊には呪咀の怨敵を未兆に攘い、関東の重任を億年に荷なわんがため、之を造立し奉る也

  永享六年三月十八日 

       従三位行左兵衛督源朝臣持氏(花押)   

          造立の間の奉行

               上椙(すぎ)左衛門大夫(原漢文)

「呪咀の怨敵」とは呪いたいほどの怨みのある敵とは将軍義教を指すと考えられ、関東の重任の神位も天下の重任にあるのではないかと『鎌倉市史』総説遍に記されている。持氏は義教打倒の決意を込めて、鶴岡に血書の願文を奉じた。将軍義教は各大名の家督継承に干渉し、内紛を起こさせて勢力の減退を図った。将軍専制を目指す義教にとって関東公方持氏の存在は許されるものではなく、同様に鎌倉府と管領の対立を利用することを目論む。永享十年(1438)八月十六日を期して鎌倉公方足利持氏が関東管領上杉憲実を攻めるという風聞が広まり、同十四日、憲実は領国上野平井城に下った。それを知った持氏は同十五日に一色氏に憲実追討を命じ、上野に下す。持氏は十六日に鎌倉を発ち武蔵府中の高安寺(東京府中市)に出陣した。

 幕府では将軍義教が鎌倉公方を望んでいた持氏の叔父にあたる陸奥の篠川公方足利満直や駿河守護今川則忠、信濃守護小笠原政康に上杉憲実の救援を命じた。そこには上杉禅秀の子息・上杉持房・教朝も含まれており、幼少時に京都の犬懸家の分家である四条上杉家の上杉氏朝が叔父にあたり養子になっていたため難を逃れていた。また、同様に上杉禅秀の子息・上杉教朝は生まれて間もなく常陸国の国人・大掾満幹の養子であったが禅秀が敗れ、兄憲秋が戦線で病気になり供に京都に逃れ僧になるが、後に環俗し、将軍義教より偏諱を受け教朝と名乗り、大将として下っている。この禅秀の子憲秋・教朝は『喜連川判鑑』で応永二十九年関東に下り、伊豆国や相模国で大官御家人等を殺害して京都に戻っている。これは父禅秀の恨みを晴らすための行動と推測されるが、持氏は禅秀の遺児に対しても強い討伐の意を注いでいた。幕府は応永三十年一月三日に使者を送り和睦を即したが持氏は受け入れず、九月に再び使者を送り、憲秋兄弟を召し放つことで和解している。持氏の禅秀に対しての執念は怨念に替わり長く引きずっていたようであり、幕府への抵抗も続けていた。

 討伐軍に将軍義教が憲秋・教朝を加えた事で父親の仇討合戦の様相も呈していたことが示される。さらに越前・尾張・遠江守護斯波義健の後見人斯波持種・甲斐常治と朝倉教景も関東に派遣された。この戦いで将軍義教は朝廷の権威を利用し、後花園天皇に対し三代将軍義満時代以来であった治罪綸旨と錦御旗の要請を行い、それを得ての討伐であった。幕府は八月十四日には持氏討伐の準備を終えていたと考えられる。義教は自身も出陣の構えを見せたが管領の細川持之ら諫言により思い止まった。 ―続く