鎌倉散策 鎌倉公方 十二、三代鎌倉公方・満兼と伊達政宗の乱 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 奥州での大きな勢力としては、白川結城氏・伊達氏・蘆名氏と別れていた。伊達氏は藤原北家山蔭流中村氏と称し、奥州征伐の際、源頼朝から関東武士の常陸入道念西が伊達郡の佐藤基治を破って与えられ、伊達姓を名乗ったとされる。伊達郡は陸奥国の岩城国(福島県の北部)で北の伊達郡と安達郡に分かれていた。鎌倉幕府滅亡時、後醍醐帝に与みし、その後に南朝方に就くが室町幕府創設時幕府側に着き、巧みに時代をすり抜けてきた。

 

(写真:青森県 ヒバ林道、尻屋崎・寒立馬)

 天寿六年/康暦二年(1380)頃から伊達宗遠・政宗親子により出羽国置賜郡(おきたまぐん)に侵攻し元中二年/至徳二年(1385)に長井氏を滅ぼし、勢力・領域において奥州での地位を確立している。天正十八年(1590)の奥州仕置きまでの二百年間、この地を伊達氏の支配下に置いていた。白川結城氏は藤原北家秀郷流小山支流小山朝光(結城朝光)を祖として、本領の宗家である下総結城氏と区別するため白川結城氏を名乗る。白川結城氏も鎌倉幕府討幕に加わり、その後南朝方に与し奥州将軍府を支えたが、南朝の奥州での勢力が減弱化していく中、室町幕府方に与した。白川結城氏は伊達氏と領地が隣接しており南奥州での対立が長く続いており、伊達氏は幕府の背景を有し、南奥州を有利に展開していた。その背景とは、幕府と密接な関係があったとされる。また、奥州は幕府から遠方であり、小山義政の乱においての経験上、鎌倉府が管轄することに有用性があるとし移管した。しかし、鎌倉府の拡大も懸念されるため伊達氏を幕府側に与させ、鎌倉府を南北・駿河今川と奥州伊達により牽制することを目的とし、親密な関係を構築させていた。白川結城氏は、鎌倉府に忠誠を誓う事で南奥州の展開を有利に進めようと考え鎌倉府の御両所進上の件で伊達氏よりも多い宇田庄を進上している。このように領土の進上に対し伊達氏は拒み応永七年五月、伊達政宗が奥州探題大崎詮持(前当主)と共に蜂起し、陸奥伊達政宗の乱を起こした。奥州探題の大崎氏に対し伊達方に与し支援を指示したとされる。

 

(写真:岩手県八幡平、北上川)

 現当主の大崎滿持は大崎領に隣接する栗原郡(宮城)を納める宇都宮氏が、かつての所領であった稲村・篠川を足利氏満の弟満貞・満直に奪われたことで恨みを持ち蜂起に加わったとの風聞により、大崎満持(現当主)は直ちに宇都宮氏を討ち取り鎌倉にその首を送り届けている。鎌倉公方満兼は、滿持の功績に対し宇都宮市の所領であった栗原郡を与えた。鎌倉公方満兼は、幕府将軍義満に奥州諸般の鎌倉府離反を幕府に告げ、これを抑圧してくれるよう書状を送っている(「尊道親王行状」)。この要請の使者を京都幕府に派遣したことは義満への配慮と伊達政宗の討伐は鎌倉府管轄の治安問題で、正当性を主張するとともに幕府が伊達家の後ろ盾にならないよう牽制する目的もあったと考えられる。

  

(写真:鎌倉 瑞泉寺)

 五月二十一日、鎌倉府は関東管領・上杉朝宗の嫡子氏憲(後禅宗)を総大将として、鎌倉を発った。伊達政宗は陸奥国赤館(福島県桑折町)に城を築き合戦の準備兵糧の備蓄等を行っている。伊達氏を中心とした南奥州の反鎌倉府勢力と上杉氏憲、白川結城氏を中心とした鎌倉府軍の戦いであった。この戦いで鎌倉府軍は鎌倉府創設以来、最大の軍勢で挑んでいる。両軍の激しい攻防は続いたが、鎌倉府軍がかろうじて勝利し、伊達政宗は逃亡、大崎詮持は自害して果てた。応永九年(1402)鎌倉府との抗争は続き出羽の諸士である寒河江氏、白鳥氏等により陸奥苅田城(現宮城県白石市と思われる)を包囲されたが、同年出羽高畠城(源山形県高畠町)に逃走した。しかし、応永十二年(1405)に同地で没している。奥州探題が斯波氏により世襲され、伊達氏は形式上その配下として存続を続ける。事績から九代政宗は伊達家中興の祖として称えられ、戦国期に奥州を平定した初代陸奥仙台藩主となる十七代藤次郎政宗は、あやかって命名された。

 この乱の二年後、応永十一年七月に白川結城氏の庶流小峰満政ら奥州諸士二十人が連署した一揆形状が作成されている。『福島県史』資料編二「松藩捜古所収文書」に「上意に応じ同心し忠節致すべし」(原漢文)と言う意図で結成されたものであり、上意とは稲村・篠川御所を指していていると考える。しかし、その諸士の中には伊達・蘆名氏、またその一族の名は加わっていない。この一揆契約は「これら大領主の圧力に対抗しようとする中小国人領主の志向と、これらの国人領主を自分の下に結集しようとして、伊達・芦名などの大領主を牽制しようとする両公方の意図とによって成立した」と考えられている(『福島県史』通史遍一)。南北朝期・室町期にかけては戦乱が絶えない時期であり、大小の領主にかかわらず、武士たちが勝ち馬に乗り継ぎ、家を維持・拡大していかなければならない時期であった。その無秩序な為政により室町幕府は以後、享栄の乱、応仁の乱、そして戦国時代を迎え室町幕府が崩壊していくことになる。

 

(写真:鎌倉 瑞泉寺)

 応永十二年九月、五十八歳で関東管領に就いた上杉朝宗が六十八歳と高齢のため職を辞任した。二代鎌倉公方足利氏満に信任が厚く、応永の乱では三代鎌倉公方足利満兼に諫言を行って上洛を止めている。そして、満兼死去後、剃髪を行い出家して禅助と号して上総で隠棲した。家督は嫡男・氏憲(禅秀)に譲っている。応永二十一年八月二十五日に上総の地で死去しており、享年七十八歳であった。その後の関東管領は上杉憲方の子・上杉憲定が三十一歳で就任し、再び山之内上杉が関東管領職を輩出する事になった。この時からすでに室町幕府と破綻をきたしていたが、改善関係に努めることになる。

 応永十四年(1407)八月二十九日鎌倉御所が炎上したが、間もなく足利満兼により再建を成している。京都においては、応永十五年(1408)四月二十七日室町幕府三代将軍足利義満は病に倒れ、日々を追うごとに悪化し、五月六日に氏去した。享年五十一歳であった。死因は服部敏郎氏が『室町安土桃山時代医学士の研究』(吉川弘文館、1988年)に流行性感冒からの悪化による急性肺炎のような症状で死去したのではないかと推測されている。斯波義将が将軍義持を補佐するため幕府管領に五度目の就任をするが、翌年八月には辞任し孫の斯波義淳(よしあつ)十三歳が管領に就任した。実際は実権を義将が持ったままで将軍御教書の署名も父の義重が花押している。義満が生前「太上天皇」の尊号が贈られないか朝廷に働きかけていたが、死後五月九日に朝廷から「太上天皇」の尊号が贈られた。しかし、将軍足利義持と幕府管領斯波義将が「先例なし」として辞退し、宣下自体が無かった事にされている。

 

(写真:鎌倉 瑞泉寺)

 義満死の翌年の応永十六年(1409)七月二十二日、三代鎌倉公方足利満兼が死去、享年三十二歳とされる。病状を記載する資料が無く、病名を推測する事が出来ない。瑞泉寺塔頭勝光院(廃寺)に葬られ、法名は泰岳道安と号した。『鎌倉辞典』では瑞泉寺には満兼のものと伝えられる墓塔がある。満兼の治世は、僅か十一年で四代鎌倉公方の中最も短い期間であったが、二十一歳に公方に就き、将軍義満との関係破綻の中、積極的な分国政治を行った。公方は満兼の長子・幸王丸十二歳(足利持氏)が九月に四代鎌倉公方に就く。関東管領は上杉憲定が引き続き持氏を補佐している。 ―続く