鎌倉散策 鎌倉公方 一、序章 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

(写真:鎌倉 浄明寺)

 鎌倉公方とは室町期に入り京都の室町幕府の将軍が関東の十ヶ国を統治するために設置した鎌倉府の今で言う長官である。また、鎌倉公方の後身である古河公方を含むと関東公方と称される。統治する十ヶ国は、相模国、武蔵国、安房国、上総国、下総国、常陸国、上野国、下野国、伊豆国、甲斐国であった。「鎌倉公方」とは鎌倉公方の自称であり、歴史用語の一つであり、当時の一般呼称ではない。当時は鎌倉御所ないし鎌倉殿と呼ばれていた。鎌倉公方は、京都室町幕府将軍から任命される正式な役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理で、「鎌倉殿(公方)」の当初の役職名は「関東管領」である。後に関東管領として一般的に有名になるのが上杉謙信であるが、その祖にあたる上杉氏は本来「関東管領」の執事であった。やがて執事が関東管領になり、「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となって言う。そして、関東管領は後に京都室町幕府将軍から任命されるようになる。

 

 少し、歴史を戻り鎌倉幕府滅亡期の背景を整理してみる。元弘三年(1333)五月八日、新田義貞は新田庄一井郷の生品神社(現太田市市野井)で一族を集結させ、生品神社の御前にて旗揚げを行った。そして後醍醐天皇の綸旨(大塔宮令旨とされる)を三度拝し笠懸野に僅か百五十騎で進出している。その夜に利根川で越後の同族、里見・鳥山・田中・大井田・羽川の先遣隊二千騎と合流し、翌日の五月九日、武蔵に向け出撃した。利根川を渡り武蔵国に入る際、鎌倉を脱出した足利高氏の嫡男千寿王(後の足利義詮:よしあき)が新田義貞と合流後する。千寿王は数え齢四歳で、その手勢は二百であった。足利尊氏の嫡男が合流したことにより、義貞の軍勢に加わる各地の武士が増えたとされる。鎌倉攻めにおいて討幕軍の軍勢は『太平記』、ではニ十万七千騎、『松梅論』では二十万余騎と記載されている。これは、北条得宗家を中心とした相模の南関東と上野・下野・武蔵の北関東の虐げられた御家人達の戦に変容していった。

  元弘三年(1333)五月十八日から始まった鎌倉攻めにおいて、激戦が繰り広げられ、二十二日、新田義貞らが稲村ケ崎から由比ガ浜に入り戦場が鎌倉に移った。北条高時ら鎌倉幕府、北条一門のニ百八十三人が東勝寺に集まり、ここに共に自害した。そして、すべての者、八百七十余人の武士が次々と自害した。『太平記』第十巻九、相模入道自害の事で「血は流れ、暗く濁った大河の如し。屍は満ちて折り重なり野原の如し」と記している。百五十年続いた鎌倉幕府と北条得宗家は、ここで滅亡した。

 

(写真:鎌倉 稲村ケ崎)

 新田氏は清和源氏の一流、河内源氏の棟梁鎮守府将軍源義家の四男義国の長男義重を祖とし、上野国(群馬県)発祥の豪族(軍事貴族)である。足利氏は新田氏と同様、河内源氏の棟梁鎮守府将軍源義家の四男義国の次男源の義康を祖とし、父義国の本領下野国足利荘(栃木県足利市)の本領を引き継いでいる。義康が早世した後、足利氏は新田氏に庇護されていたが、源頼朝挙兵時に足利氏は早々頼朝に従ったが、新田氏は動かず、体制が整ってから頼朝に臣下したため、鎌倉期において冷遇され、足利氏との立場は逆転してしまった。

 無位無官の新田義貞が実際に綸旨を受けたかどうか疑問が投げられており、『太平記』において後醍醐天皇が義貞宛に綸旨を発給した記述はない。しかし、綸旨の文章で書かれた令旨であったと、また大塔宮の令旨とされている。尊氏は後醍醐帝から綸旨を受けている。また、新田義貞が討幕の挙兵を上げたが、兵力の増強は、足利尊氏の嫡男、数え齢四歳の千寿王(後の義詮)、その手勢は二百であったが、合流したことによる要因が大きい。鎌倉での戦勝後、鎌倉攻めに参加した御家人たちは、新田方に参る者より、足利方に参る武士の方が多かったという。それに対し両者は一触即発になる事態まで進んだ。しかし、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐帝による建武の新制が行われ、鎌倉幕府討幕に貢献した新田義貞は討幕後に鎌倉を離れ京の後醍醐帝に赴く。すでに、京都では足利尊氏らが六波羅探題を滅ぼし、着実に後醍醐帝の近臣として取り扱われていた。ここで、千寿王(後の義顕)を鎌倉に残したことが、足利氏の東国運営に大きな役割を担うことになったのである。

 

(写真:神護寺三像 左、伝源頼朝像が足利直義像として、右、伝平重盛蔵が足利尊氏像と新たに説が示されている)

 建武の新政の機構として地方では、陸奥将軍府、鎌倉将軍府、そして守護・国司が残された。建武の新政において足利尊氏の弟直義が左馬頭に任じられ、鎌倉将軍府に後醍醐帝皇子成良親王を奉じ、事実上の長を務めた。足利尊氏と対立関係になった護良親王が鎌倉の東光寺に幽閉され、直義が監視者とされた。北条高時の遺児・北条時行が中先代の乱を起こし直義は敗れる。鎌倉に迫る中護良親王が時行の手に渡ることを恐れ、また、尊氏との敵対者である中護良親王は、直義の配下の淵辺義博に殺害させ、成良親王と尊氏の嫡子千寿王を連れ三河国矢作(愛知県岡崎)まで撤退した。尊氏は後醍醐帝に征夷大将軍と惣追捕使として時行討伐を願い出るが、その勅許をえられないまま三河国矢作に駆け付けた。尊氏・直義兄弟は年子で非常に仲の良い兄弟で武と人望にかけては尊氏、文と政治にかけては直義と評価される。尊氏にとって弟の救出もあったと思われるが、武士の拠点としての鎌倉を失うことは、今後の体制に不利になることが大きな要因であったと思われる。その後、北条時行を破り、鎌倉を奪還した尊氏は独自の論功行賞を行っている。後醍醐帝の直視を受けず東下したことで鎌倉に留まり赦免を求め隠棲し、出家までしようとした。後醍醐帝から上洛の命が出たにもかかわらず上洛しなかったため、建武政権から新田義貞を大将に尊氏追討軍が出される。弟の直義が駿河国手越河原で義貞を迎え撃つが、敗北し、これに危機感を感じた尊氏は箱根・竹之下の戦いで追討軍の新田義貞を破りそのまま上洛した。その際、尊氏の嫡子・千寿王は再び鎌倉に残し、後に尊氏と直義が対立し義詮(千寿王)が上洛するまでの延元元年(1336)から正平四年(1349)まで鎌倉公方の職に就いていた。 ―続く

 

(写真:護良親王陵墓と鎌倉宮土牢)