鎌倉散策 中世の姓と名 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 平安期から中世に渡り、歴史上の人物の姓名について興味を持つことが多い。名には、仮名(けみょう)と実名がる。仮名とは通称で官位や家内で生まれた順番などを用いる。

 『義経記』において、牛若丸(遮那王)が熱田大明神の前で仮名を「左馬九朗」として、実名は義経と自ら付けたとされる。「左馬九朗」は、父頼朝の官位が左馬頭であったために付けられた。しかし本来、義経は第八子である。保元の乱で敵方の源為朝が鎮西八郎であったため「左馬九朗」とし、実名を義朝の子、嫡子・義平から義経とした。後に官位が後白河院より叙任され仮名が「判官」と変わる。中世においての名前は権力者と読み方や同じ字を使うことは許されなかった。『吾妻鏡』文治二年(1186)七月日条、「義経は他の参位中将殿良経(摂政藤原良経)と同名たるによりて義行と改めらるる」。これは当時、義経が幕府から謀叛人とされ追討されていたため、幕府と摂政藤原良経によって変えられている。同年の十一月には義経をとらえることができないのは「義行」「能く行く」「能く隠れる」に通ずるためとされ幕府は「義顕」に改名させられている。「義顕」は摂政藤原良経の父・九条兼実の意向によるものとされ兼実の日記「玉葉」にその記事から知ることができる。

 

 当時の武士は、藤原氏、平氏、源氏姓からなることが多いが、その中で祖流として分かれてゆく。桓武天皇の王子が臣籍降下して日本中の地を開拓し領地を求め、また同時期に藤原氏の下級貴族も同じように各地に散らばってゆく。清和源氏は、その後に臣籍降下したため、公卿に仕え、朝廷の軍事・警護等の武士の役割を与えられる。また各地の紛争において将軍として制圧に向かう役割を担いながら、制圧地を所領地とすることが多くなった。それが清和源氏の中の摂津源氏であり、源頼義、頼家―義朝、頼朝である。中世の武士では、例として挙げると三浦氏は元々桓武平氏の良文流平氏で平将門は、良文の兄の子である。前九年の役から源頼義、に仕え従軍した。そして頼家―義朝、頼朝へと主従関係を継続してきた一族であり、良文の孫・忠通が相模に所領を持ち玄孫の為通から三浦姓に替える。そして三浦、杉本、和田姓と分れた。これは、その所領とした地の名称を姓に替えているためである。また所領を持たない郎従などは、在住地と姓、仮名、実名を記す場合や在住地と実名のみの場合もある。三浦介次郎義澄は三浦の地の国司の次の役職で三浦姓の次男の義澄と言う事になる。『吾妻鏡』で建久三年七月二十六日条、源頼朝の征夷大将軍の叙書を受け取る名誉な役として義澄が遣わされ、朝廷の使者から名前を問われた際、三浦次郎と名乗ったと記されている。介(国司に次ぐ役職で四等官)の叙書が、まだ到来していなかったため謙虚に名乗った。

 

(写真:京都醍醐寺)

 将軍においても天皇や公卿衆に名前の一部を受けて擬制のおや子関係を結ぶことや信頼関係を示すことで、朝廷との関係や自身の権力を強化した。足利尊氏の場合、元は「高氏」から後醍醐天皇の諱「尊治」から偏諱を受け「尊氏」と改名した。南北朝の内乱が起こる。しかし、対立する後醍醐天皇から偏諱を受け「尊氏」は、その後も使い続けたことは天皇を尊く思う事か、それとも権力を強化するためであったのかは定かではない。

  

(写真:三浦義澄の墓)

 前回から七回続けていた『曽我物語』では、伊藤祐親を『吾妻鏡』では伊東姓を用い、『曽我物語』では、伊藤姓を用いている。工藤氏の関連を調べてみると平安時代末期から藤原南家乙麻呂流・藤原為家の流れを汲む。藤原為憲が天慶三年(940)二月に平将門追討により貞盛・藤原秀郷と協力し征伐した。恩賞として従五位以下に叙爵、木工助(宮内省の宮殿造営職木工寮の次官)に就任し、『尊卑文脈』によると藤原の藤と、木工の工を合わせ工藤姓を起こしたとされる。伊豆国・駿河国・甲斐国・遠江国の権守を歴任し、工藤氏から伊藤氏、伊東氏、吉川氏、鮫島氏、二階堂、氏相良氏を配出している。 駿河国の工藤氏は入江氏を出しており、駿河工藤に対し東伊豆に移動した一派が「伊豆工藤」と称し、後の「伊藤氏」姓の由来ともいわれる。その後、領地名を基に姓がつけられるようになり「伊藤氏」から伊豆の東の工藤氏から「伊東氏」に変わったようである。伊豆国における工藤氏は平安時代から鎌倉時代にかけて狩野氏、伊東氏、河津氏など、別れていった。しかし、工藤氏の一族では通字は「祐」である。

  

 伊東氏は一時途絶えるが、曽我兄弟で仇討された工藤祐経の子犬房丸が伊東姓を継ぎ伊藤祐時と名乗っている。その後、南北朝時代に日向に移住し繁栄と遂げている。鎌倉幕府に仕えた工藤行政は永福寺の傍の二階堂に邸を構えていたために二階堂と称するようになり二階堂氏の祖とされる。また子息・行光が鎌倉幕府の政所執事に任命され、一時親族の伊賀光宗が任じられた以外二階堂氏が同職を補任する慣例となった。奥州工藤氏や狩野氏のように得宗被官化して勢力を広げる者もあった。また遠江国の井伊氏もその末裔と称いている。このように名を基に系図的に、その流れをを見ることで新しい発見を見ることができる。