鎌倉散策 神護寺三像、十一「伝源頼朝像」は足利直義である。 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 夢中問答集において、神護寺三像を連想させる問答がある。「七、神仏の効験(伊勢と八幡、神仏混交のこと)」。問。仏力・法力たやすく定業を転ずることあたはずば、何おか仏法の利益と申すべきや。黒田氏の訳を引用させて頂く「仏力や法力によって、定業(前世から定まった業因)をかえることが容易ではないというのなら、いったい何を仏法の功徳としたらよいのでしょうか。」

夢窓は次のように答えている。「業には種々の段階がある。現世ですぐに報いがあるのが順現業(じゅんげんごう)、次の世に報いるのは順生業(じゅんしょうごう)、順生業の後に報いるのは順後業(じゅんごごう)である。この三種よりも軽い業は、何時でもついでの時に報いる事になっており、不定業と名付けている。業は、その軽重によって遅速があるが、必ず報いがあるものである。仏法・法力がなければ、とうていこれを消滅させることは出来ない。たとえ仏法・法力があったとしても、衆生に憐れみを求め、罪を悔い改めようとする心がなければ、業の報いを消滅させることは不可能である。」と説明し、伊勢大神宮のことを話し出し、八幡大菩薩の話へと移る。

 八幡大菩薩は、昔、豊前国の宇佐宮に神となって現わされてから後、百十年経ってから、山城国の男山に移られた時、行教和尚の三衣の袂に三尊の霊像を現しになられた。今、男山の御殿に納められている「しるしの箱」というのが、これである。八幡大菩薩が弘法大師と御対面になられた時には、僧の姿でお現われになった。弘法大師はその大菩薩の姿をお写しになり、大菩薩もまたご自分で、弘法大師の御影をお写しになられた。その両御影は、高尾の神護寺に納められた。これすなわち修正を導いて仏法に帰依させ。生死の煩悩から離れさせるための瑞相(ずいそう:めでたい事が起こるあいるし)である。

  

  この様に夢窓疎石により神護寺には、弘法大師と八幡大菩薩像があると語られ、直義は達磨大師と聖徳太子の両像安置以上に刺激を与えられ、極めて大きい意味を持ったと考えられる。それは第一に神護寺が源氏の氏神である八幡大菩薩の神願によって始まった寺であった。直義願文にもその記載がなされ、直義は神護寺が源氏にとって所縁のある寺と認識していた事が窺える。第二に足利家にとって神護寺は深い因縁の寺であった。鎌倉初期の足利家当主の義兼が「塔 武家足利上総介義兼寄進」(『神護寺略記』)、「金銅一重小塔一基、中央安置胎蔵大日、上総介源朝臣義兼、号足利寄進之、」(『神護寺規模殊勝之条々』法華堂条)等から義兼の時代から神護寺は足利家にとって所縁が続いていたと考えられる。こうした「対」の肖像の安置によって所願をかなえる事を知り、「対」の肖像画を作成した。そして神護寺三像は弘法大使の「大きさ」「かたち」を見倣った可能性があると述べられている。

 

(写真:ウィキペディアより夢窓疎石像と二行書)

 黒田氏は足利直義の神護寺への願文と兄弟像を奉納・安置についての所願は、「足利尊氏・直義兄弟は、二頭政治を持続せんとする直義の政治意志の表現であった。(願文の記述日)二十三日という日は母上杉清子(月命日)の菩提を弔うためのだけの日付では無くて、二人が仲良く「両将軍」として足利家の永続させて行ってほしいという母の「願い」を受け止めた日付なのであった、それ故、直義は、神護寺への願文と兄弟像を奉納・安置したのだと私は思う」。そしてこの肖像画の異議について黒田氏は、「日本の俗人肖像画は追善供養のための物が大部分であり、政治権力者が自らの秩序を維持・永続させることを願って肖像画作成の事例は、これまで全く紹介されなかったと思われる。したがって、これだけでも驚愕すべきことだと思う」。と述べられている。

 その後、高師直と足利直義の対立により尊氏邸の包囲が行われ、夢窓疎石の仲介により、直義は鎌倉から京都に来る義詮の補佐をすることで政務に復帰するが、立場上において降格となり、発言力もない状態に等しくなった。この時、神護寺三像の「伝平重盛像」こと足利尊氏像の代わりに「伝藤原光能象」の足利義詮像を掛け替え、直義自身と義詮像の対の肖像画を奉納安置する事で足利家、室町幕府の安泰を願ったと結論付けされる。伝藤原光能象は足利義詮であった。その後、直義が観応の擾乱後に亡くなり、その肖像画の安置の本願や主像名も忘れ去られたのであろう。

 米倉説の神護寺三像の疑問点を再度まとめて見ると以下になる

一、「神護寺略記」の問題。

二、表現・構図から「伝頼朝像」と「伝重盛像」が一対、その後「伝光能像」が加わる。

三、神護寺三像と南北朝中期の夢窓疎石の表現が似ている。政策は南北朝。

四、太刀に「伝重盛像」の柄に「桐紋」があり、これは足利氏の紋である。畳

五、「伝光能像」が足利義詮に似ている。

六、足利直義願文で神護寺に足利尊氏・直義が像の寄進を行っており、「伝頼朝像」が足利直義「伝重盛像」が足利尊氏である。

七、「伝光能像」義詮像で観応の擾乱時後に尊氏像に替わり義詮像と直義像が一対になる。

以上があげられるが、すべてを語ることは出来ず、神護寺三像に私が興味を持った。

 

 大変失礼であるが、黒田氏の著書を私なりに、まとめさせて頂いた。鎌倉期の絵絹の大きさ、足利直義願文、足利直義の人物像と施政、南北朝期の歴史背景、そして一番興味を持った夢窓疎石との関係と夢中問答集を上げ、私なりに整理し勉強させて頂いた。私のブログの鎌倉散策で昨年末から「鎌倉幕府の衰退と滅亡」、「北畠顕家」、「足利直義」と歴史背景と人物を綴り、今回は南北朝期の「神護寺三像」を記載させて頂いた。鎌倉期も非常に面白いが、「南北朝期」に入ると時代背景が非常に複雑になる。かなりの書物を読み、私自身理解したつもりであり、結果的に時代の渦が回り始め、南北朝期、室町期に入り、守護の勢力が強大な力を持つに至った。そして応人の乱や下克上の果て室町幕府は崩壊する。室町幕府の政道が足利直義による施政が行われていたならば、戦国期へと移行していっただろうか。「南北朝期」を文章にまとめると時代の渦が回り始めたように支離滅裂な状態になる。足利直義の人物に引かれるからだと思う。伝えたい、伝えたいという思いが増すからだろう。米倉氏、黒田氏の新説として取り上げられ、歴史と推理、仮説と証明について非常に素晴らしい著書である。神護寺三像「伝頼朝像」が像主名「足利直」である事で、疑問を持っていた私にとって全てを納得させて頂いた。まだまだ語る事が出来ず、興味を持たれた方やより深く知りたい方は、是非、黒田日出男著『国宝神護寺三像とは何か』を一度拝読されることをお薦めする。 ―完

  

(写真:ウィキペディアより神護寺三「伝源頼朝像」足利直義像、「伝平重盛像」足利尊氏像、「伝藤原光能象」足利義詮像。