鎌倉散策 護良親王、一 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

(写真:ウィキペデイアより護良親王像と鎌倉宮)

 護良親王(大塔宮)は延慶元年(1308)の生まれとされ、『天台座主記』に嘉永に嘉暦二年(1327)二十歳で天台座主になったと記載されているため逆算して生年を出している。尊治親王(後の後醍醐天皇)の第三皇子として生まれるが一宮(第一皇子)と言う説もある。母は民部卿三位(北畠師親)の女資子もしくは勘解小路経光(広橋経光)の女経子とされている。正中二年(1325)、六歳で天台三門跡の一つ梶井門跡に入室し、利発聡明であったとされ、還俗前の名は尊雲法親王大塔で(密教寺院の七堂のひとつ)に入室し、正中二年(1325)に門跡を継承した。嘉暦二年(1327)十二月には二十歳で叡山の天台座主に就いた。東山岡崎の法勝寺の九重塔(大塔)周辺に門室を置いたと考えられることから「大塔宮(おおとうのみや)」として称される。『太平記』では武芸を好み、仏教の修行や学問には一切かかわらず、毎日僧兵と武芸の鍛錬を熱心に行う極めて異例な天台座主と記されており、武芸はかなりの腕前であったとされる。異父兄に尊珍法親王(そんちんほっしんのう:父亀山天皇、母民部卿三位)がおり、また正室は北畠親房娘であり、子女として興良親王(おきよししんのう)がいる。当時、皇位継承を得るには母の地位が重要で、母が民部卿三位であった事から、当初から皇位継承者争いに脱落していたのでは無いかとも思われる。

 

(写真:(比叡山延暦寺)

 元弘元年/元徳三年(1331)六月、後醍醐天皇の倒幕計画に加わり、幕府調伏の祈祷を首謀した日野俊基と浄土宗の忠円・法勝寺の円観・文観、南都の知教、教円が捕らえられた。中円が白状し利基が計画していた陰謀について、さらに五人の僧侶と公卿の名を出し、また別途に宮中での幕府への呪詛等に大塔宮の名を出したとされる。鎌倉幕府内で大塔宮を捕縛し、取り調べの後に死罪。後醍醐天皇は取り調べの後に、流罪。文観は硫黄島、中円は佐渡島に配流。円観は奥州にて身柄預かと処されている。そして日野俊基は鎌倉にて死罪が申し渡され、翌年の元弘二年(1332)六月三日、葛原ヶ丘で斬首された。

 後醍醐天皇は元弘元年/元徳三年(1331)八月二十四日、嘉暦の政変で幕府内の混乱に乗じ、神器を持ち京都をぬけ出し、鎌倉幕府討幕の為、僧兵を率いて挙兵を呼応する。木津川南岸にある笠置山(奈良県北部)に籠り秘かに行宮(あんぐう)を設け、これに呼応して河内で楠木正成等が蜂起する。比叡山東坂本では、僧侶との合戦で六波羅探題軍は惨敗し、九月一日には六波羅の高橋太郎と小早川が攻めるが敗退した。

  

(写真:奈良般若寺)

 幕府は足利高氏出陣を要請し、上洛させ、六波羅は軍勢十万余騎で笠置山を囲んだが攻めあぐねていた。九月ニ十九日未明、六波羅勢の陶山(すやま)義隆、小見山次郎が決死の覚悟で夜討ちを行い笠置山の皇居に火を放ち落城させる。後醍醐天皇は万出小路藤房・季房兄弟と楠木正成の本拠地の金剛山を目指すが有王山の麓で囚われ。そして十月一日に平等院に入り、その後まもなく六波羅に幽閉された。皇太子量人親王(光厳天皇)は三種の神器を渡され同十三日、内裏に入った。(『太平記』第三巻より引用)これを元弘の乱と呼ぶ。この時に大塔宮は奈良般若寺に逃げ、かくまわれた。興福寺一条院の按察法眼好専が五百騎の兵を引き連れ般若寺の探索が行われるが、その気配を知り大塔宮は本堂の般若経の経箱に身を隠す。兵の一人が経箱を開け調べたが何もなく引き返したが、もう一つ経箱があったことに気づき、再び戻って調べたが、やはり何も無かった。大塔宮は兵が戻って来た事を感じ、とっさに先ほど兵が調べた箱に移り変わったと言う。とっさの起点により命拾いをした大塔宮は集まった家臣と共に熊野に向かった。

 

(写真:鎌倉宮宝物殿の護良親王像と護良親王令旨)

 計画は失敗し、後醍醐天皇は隠岐島に流され、護良親王は赤松則祐、光林房玄尊祐、矢田彦七、木寺相模、岡本三河房、村上義光、片岡八郎、平賀三郎の九人で熊野へ向かうが途中熊野三山別当が幕府よりであることから十津川に向かう。十津川の豪族竹原八郎宗親の甥の戸野兵衛の屋敷に着いた。伝承により、その屋敷に病人がおり大塔宮が祈祷をすると病が治ったとされ、戸野兵衛が、お礼に一行を屋敷に滞在させる事になった。小野寺相模が素性を打ち明けると仲間に加わり、竹原八郎は黒御所の造営を開始した。後に江戸幕府の討伐軍としても十津川の義勇軍は勤皇派として参加しているが、ここからの繋がりである。大塔宮・尊雲法親王はこの十津川で還俗し護良親王となったとされ、熊野三山別当・定編が恩賞目当てに五百騎で探索に来た事で吉野を目指した。その際に竹原八郎の甥の野長瀬六郎・七朗兄弟の軍勢に助けられている。元弘三年一月、吉野に籠る護良親王が父後醍醐天皇に変わり秘かに令旨を発し、幕府への畿内各地の寺社や野伏に討幕軍の参加を呼びかけ反幕府勢力の結集を促し勢力を次第に増強していく。護良親王は三千の兵で千早城の楠木正成と呼応し同時に挙兵した。元弘三年一月ニ十一日、赤松円心も、子息則祐を通じ大塔宮令旨を手に入れ挙兵する。幕府はこの事態に驚愕し、再度大軍を畿内に数十万の兵を派遣し、吉野、赤坂、金剛山の城に派兵した。

 

(写真:鎌倉宮村上社と村上義光と像)

 吉野では城郭を構え三千騎の軍勢で幕府軍の二階堂道蘊(道蘊)六万の軍と一進一退の攻防が続いたが、二月十八日背後からの奇襲を受け大塔宮の軍勢は総崩れする。大塔宮は自身も矢傷を受け自害を覚悟するが忠臣とされる村上義光(よしてる)に叱咤され城を落ち延びさせ、義光は護良親王の甲冑を着け変わりに自害、子の義隆は討ち死にしている。護良親王は高野山に落ち、吉野、十津川、宇陀の武士七千が集まり、千早城を囲む幕府勢の兵糧を遮断した。幕府軍は兵糧がたちまちに尽き、人馬とも疲弊し、十方に逃げ去る。そこに野伏が要所ごとに待ち受けて討ち取ると言う段取りを整えていた。

(写真:ウィキペデイアより後醍醐天皇像)

 同年四月に壱岐島を脱出した後醍醐天皇は伯耆国名和湊に着いた。名和湊の長者で海運業を営む有徳人の名和長年に勅使を送り、長年の弟長茂ら一族の意見により後醍醐天皇を船上山に迎え入れた。船岡山には城郭を構え、追撃して来た佐々木隠岐前司らの軍勢が船上山を攻めたが敗れ去る。そして船上山で倒幕論旨を発せられた。各地の武士に決起を即し、その結果、元弘三年五月七日、北から足利尊氏、西から赤松円心、南から千種忠顕を攻め六波羅探題を陥落させる事に至った。また東国において新田義貞等が、呼応し、元弘三年(1333)五月二十二日、鎌倉を攻め落とし、東勝寺に集まった鎌倉幕府執権であった北条高時と北条一門のニ百八十三人、共に自害し、すべての者、八百七十余人の武士が次々と自害し、『太平記』第十巻九、相模入道自害の事で「血は流れ、暗く濁った大河の如し。屍は満ちて折り重なり野原の如し」と記している。百五十年続いた鎌倉幕府と北条得宗家は、ここで滅亡し、鎌倉幕府は滅びた。

 

(写真:鎌倉東勝寺跡北条高時腹切りやぐら)