二月二十三日の天皇誕生日の祝日は、良く晴れ天気になり、気温も十六度と最高の散策日和となった。昭和二十三年まで天皇誕生日が天長節と呼ばれ、昭和天皇の誕生日が四月二十九日で、祝日法の施行くが七月二十日であった為に変更された。昭和生まれの人達は御存じだが、五月のゴールデンウイークの始まりが四月二十九日の昭和の日である。この日も、いずれは意味合いを忘れられるのかもしれない。
鎌倉宮では天長節祭が、どのように行われるかと興味を持ち、二階堂の鎌倉宮を散策した。早朝九時に八幡宮前でバスを降り、二階堂に歩いて向かう。およそ二十分の道のりで、人出が少なく、気持ちの良い空気が漂っている。鎌倉宮に着くと十一時から天長節祭が始まると言う事で、時間が有る為、覚園寺に行く。従来は薬師堂、地蔵堂に入るには十時から一時間ごとに案内していただいていたが、昨年の春からコロナ対策において案内される人を無くし、薬師堂、地蔵堂へは時間に関係なく個別に入る事が出来るようになった。私は、鎌倉に来る友人を何よりも最初に連れて来る一番お気に入りの場所である。
そろそろ十一時になろうとし、鎌倉宮に戻る。各神社において天長節を祝われるが、鎌倉宮は護良親王を祀り、社殿であり、何度も鎌倉宮に来ているが行事に参加する事は初めてである。昨年は中止になった薪能に今年は行こうと思っているが、どうなるかは分からない。鎌倉宮については令和三十一年七月三十一日に「鎌倉散策 鎌倉宮」で述べさせていただいている。
八幡宮、天満宮、稲荷社においては朱に塗られた社殿が何時も新品のように色彩を放っているが、鎌倉宮は色彩をほどかさず、古の社殿の様相を醸し出している。しかし建立は明治期になってからだ。鎌倉宮は建武の中興に尽力され、二十八歳と若くして命を奪われた護良親王の偉勲を後世に伝えることを望んだ明治天皇の勅命により、明治二年(1869)、親王が命を絶たれた東光寺跡に創建された。「鎌倉宮」の名も天皇が自ら命名された。大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)を祀ることから、別称、大塔宮(だいとうのみや)とも呼ばれている。
十一時を過ぎると鎌倉宮の宮司と禰宜の方、雅楽奏者の女性、巫女の四人が社務所から出てこられ舞殿に着かれ、拝観者は二十名ほどであった。禰宜の方が龍笛(りゅうてき)を女性が笙(しょうのふえ)を奏で始められた。式台が進められ、舞殿奥の本殿に宮司が祈りを捧げられ「ウオー」と大きな声を発せられる。そして舞殿に戻られ玉串が奉納され、一人の巫女が豊栄舞(ほうさかえのまい)を舞われ、その後参拝者と共に二礼二拍手一礼が行われ式は終わる。
宮司が舞殿の拝観者近くに来られ、簡単に鎌倉宮の成り立ちと天長節祭についてお話になった。その中で、今生天皇が今までに話しされた言葉の意味が、後になり、理解する事が最近多くあると言われた。私は右でも左でもないが、日本の象徴として国民を愛し、国民に愛される天皇陛下を支持したい。来月には東北太平洋沖地震の震災が発生し十年目に入る。被災地を回り被災された方にとっては、そのお言葉を一言で表せない大きな意味が含まれていたと思う。平成天皇は阪神淡路大震災の時にも被災された人々に対し、ひざまずき被災者をねぎらわれた。当時大阪で早朝五時にあの揺れを感じ、私のマンションから見える六甲山の下の神戸の街に黒煙が数十本上がり、夜には赤く燃え上がる炎が映し出されていた。昭和天皇も戦後、人間宣言をされ、各地を巡行され戦後復興に励む国民をねぎらわれた。宮司はそういった話の内容の意味を思い起こす事や、このコロナ下の時代に、心のゆとりが必要であると話され、式典は終わった。
この様に他の社殿において宮司が参拝者の前で話される事は、私は初めての経験であり、良い事だと思った。正直質素な式典ではあったが、心のこもった式典であったが、参拝者も四十名ほどに増えていた。そして荏柄天神へ向かい西御門、鶴岡八幡宮を歩き八幡宮裏からバスに乗り昼過ぎには帰宅した。二階堂を歩く道のりは、どの季節においても良い。鎌倉宮、覚園寺、永福寺跡、護良親王墓(理智光寺跡に親王の墓がある)、瑞泉寺を巡って頂きたい。