鎌倉幕府滅亡後、鎌倉は直ちに衰退をたどらず、古学的な調査により十四世紀の遺構・遺物は十三世紀と変わらないと言う事が判明している。鎌倉幕府滅亡から南北朝期における鎌倉の状況を示す資料は少ないが、一通りまとめて見たいと思う。
新田義貞が元弘三年(1333)五月八日、新田庄一井郷の生品神社(現太田市市野井)で一族を集結させ、生品神社の御前にて旗揚げを行った。そして後醍醐天皇の綸旨を三度拝し笠懸野に僅か百五十騎で進出した。義貞の執事である船田義明の謀で大塔の宮、護良親王の令旨を手に入れたとされる(太平記第七巻四)。しかし鎌倉を攻める義貞の軍勢に加わる各地の武士が増えた。軍勢は『太平記』、ではニ十万七千騎、『松梅論』では二十万余騎と記載されている。これは、北条得宗家を中心とした相模の南関東と上野・下野・武蔵の北関東の虐げられた御家人達の戦に変容していった。この軍勢の中に鎌倉を脱出した足利尊氏の嫡男千寿王(後の室町幕府二代将軍 足利義詮:よしあき)が新田義貞と合流後している。
千寿王は元徳二年(1330)六月十八日の生まれの数え齢四歳で、斯波家長が補佐し、その手勢は二百であった。足利尊氏は元弘元年の元弘の変において後醍醐帝の笠置の挙兵に際して父貞氏の喪中でありながら大将として出陣を要請され、赤坂城攻略を行っている。今回も後醍醐帝の挙兵において北条高時の再三の出陣要請があり、また内官令長崎円喜(高綱)が尊氏の叛逆を恐れて妻子を鎌倉に置くことを要請した。四月二十七日の八幡・山崎の合戦に尊氏は山崎側から傍観し、久我縄手の陣を張っていた名越高家が討たれ、同ニ十九日に、所領の丹波国篠村八幡宮(京都府亀岡市)で鎌倉幕府に反旗を翻す。幕府の京都の拠点六波羅を攻め滅ぼし、尊氏は後醍醐帝から鎮守府将軍武蔵守を任じられた。尊氏は元弘元年の上洛の際から、北条に対する不信と謀叛を考えていたとされる。本来、河内源氏源の棟梁義家の四男義国の次男である義康を祖としており、弱小地方豪族の北条(桓武平氏の平直方を祖とするが系図上に相違点が多く定かではない)とは家格が違い、鎌倉期の北条執権体制において新田氏同様に忍従を貫いた。
(写真:新田義貞像ウィキペデイアより、鎌倉長寿寺)
尊氏が四月二十九日に鎌倉幕府に反旗を翻したのは上洛中、あるいは後醍醐帝の綸旨を受けていたとされ、また、榎原雅治氏の『室町幕府と地方社会』で尊氏の母清子の兄である上杉憲房が「幕府の苛烈に対する京都の人々の忌避感や、倒幕勢力の強勢の情報から、憲房もまた幕府の滅亡の近いことを確信したに違いない」と後醍醐帝に与する事を示唆されたと言う。上洛に際し、千寿王と妻登子を共に上洛する事を願い出ている。尊氏の妻登子は北条家庶流で最期の執権赤橋守時の同母妹で、守時は北条高時から謹慎を受けたが、鎌倉攻めにおいて巨福呂坂切通方面の大将に就き、洲崎の激戦の末、劣勢に陥り尊氏の反逆に責任を感じ自答した。千寿王が尊氏の妻登子と鎌倉を脱出したのは、五月二日で上洛前からの尊氏の計画であったと推測される。尊氏の住居が鎌倉切通内ではなく山ノ内(北鎌倉)の現在の長寿院だったことから、そこからの脱出する事は可能であったと考えられる。また『太平記』によると登子と千寿王は大倉谷にあった屋敷に住んでいたとされる。千寿王と妻登子は本領下野国足利荘に向かったのか、また挙兵した新田義貞に合流しようとしたのかは定かではない。太平記第十巻三「九日、武蔵国へ打ち越え給ふ。則ち記五左衛門(紀政綱)、足利殿の御子息千寿王殿を具足し(おつれして)奉つて、二百騎にて馳せついたり」。通説では新田義貞の挙兵に伴い、新田の軍勢を探していたとされる。尊氏が義貞と通じていた記録はない。
(写真:鎌倉長寿寺)
元弘三年五月十八日から始まった鎌倉攻めは激戦の末、同二十二日、稲村ケ崎から鎌倉に侵攻した討幕軍により北条高時は東勝寺で八百七十余人と共に自害し『太平記』第十巻九、相模入道自害の事で「血は流れ、暗く濁った大河の如し。屍は満ちて折り重なり野原の如し」と記している。百五十年続いた鎌倉幕府が崩壊し、北条得宗家は滅亡し、そして鎌倉は戦火により焦土となった。
千寿王は鎌倉攻めに参加した武士に家臣の補佐を伴い、軍忠状を発布し、足利氏が武士の棟梁である事を認知させている。参加した武士にとっては、今まで無位無官の義貞より、尊氏は十五歳で従五位に叙し治部大輔に任じられ鎌倉幕府の遠征軍の大将に就く地位では足利に近づくのは当前のことであり、足利邸に参ずる武士が圧倒的に多かった。この事で、鎌倉で新田・足利との小競り合いがあったとされ、後義貞と尊氏の不和の原因となったとされる。また、義貞は後醍醐帝から上洛の命を受け、京に向かうが、鎌倉の地は千寿王率いる足利勢が居残り、鎌倉での立場を優位に進める事になった。
(写真:後醍醐天皇像、足利尊氏像)
後醍醐帝は建武の新政において関東地方から東北地方に鎮圧と統制を行う為、元弘三年十月に北畠顕家が義良親王を(後村上天皇)を奉じ陸奥国に派遣され陸奥将軍府が成立。十二月には尊氏の弟足利直義が成良親王、当時四歳を奉じて鎌倉に派遣され、鎌倉将軍府が成立し、関東十ヶ国を管轄した。千寿王は叔父の直義の基で鎌倉にて過ごし、成良親王の御所に仕えた「関東廂番(将軍の御所にて宿直・警護を任務とする)」の名も連ねている(建武記)。直義は寺院の再興や報国寺の建立など鎌倉の再建に尽力した。建武二年(1335)七月十三日に北条高時の遺児時行が挙兵し中先代の乱が起こり、その勢力により、直義は成良親王を奉じて千寿王を連れ鎌倉を脱出した。足利尊氏が後醍醐帝の関東下向に際し征夷大将軍と惣追捕使(そうついぶし)の職を望むが許しを得ぬまま東国に向かい鎌倉を奪還している。そして尊氏は北条屋敷跡に新邸を造り、そして足利尊氏は後醍醐帝に反旗を挙げ上洛。摂津国打出西宮浜・瀬川河原の合戦で敗退し、九州に逃れた。尊氏は九州での諸勢力の集結に成功し、延元元年(1336)五月二十五日湊川の合戦で勝利し、六月十四日、光厳天皇を奉じ入京する。尊氏は後醍醐帝と一時和睦を行い、「建武式目」を十一月七日に制定し、建武政権は事実上崩壊し、室町幕府が成立する。しかし、その後の五十七年間の南北朝時代の抗争が続くことになり、その後の室町期においても抗争が続き戦国時代へと移行した。
(写真:北畠顕家像ウィキペデイアより)
鎌倉は尊氏が建武政権に反旗を挙げ上洛した後を追うように陸奥鎮守府大将軍の北畠顕家が急速な勢いで鎌倉を通過したため大きな被害は無かった様である。康永元年(1342)十二月一日千、千寿王は元服し義詮と名乗った。その後、鎌倉は鎌倉公方が五代続き、東国武士にとっての武士の都として繁栄するが、中先代の乱(1335)は主戦場に放っておらず、禅秀の乱応の永二十三年(1416)までなかった。この間、鎌倉公方、管領上杉氏等により鎌倉は再建されたが、鎌倉公方持氏の時代永享十年の永享(1438)の乱鎌倉は崩壊し、その十年後に鎌倉は復興なされた。しかし足利成氏が起こした享徳三年(1454)の享徳の乱は二十数年に及び鎌倉府を放棄し幕府と対立が続いた。成氏は拠点を下総国古河におき古川公方と称され、幕府方の立てた「関東主君」足利正知は伊豆韮山の堀越に留まり堀川公方と称された。その後、鎌倉に鎌倉府と鎌倉公方が存在せず鎌倉は衰退していく。その後五十年が過ぎ、後北条氏(伊勢宗瑞)が復興を心に近い、再び復興を始める事になった。「枯れる樹にまたはなのきをうえそえて もとの都になしてこそみめ」。永承九年(1512)八月十三日に伊勢宗瑞が詠んだとされ『快元増都記(かいげんそうずいき)』(天文三年十一月二十日条)に記されている。