(写真:瓜ヶ谷緑地)
西瓜ヶ谷やぐら群を拝見し、再び北鎌倉から梶原に抜ける道を少し上ると、瓜ヶ谷緑地がある。この緑地は、もとは邸宅跡地で四十年ほど放置され、(2017)六月に鎌倉市に陳情し、開放された。そして現在、瓜ヶ谷町内会を中心としたボランティアの人たちが活動し「都市緑地」として住宅地と接せる緑を守る環境政策により屋敷跡の危険物の除去、雑木林の伐採をされた。しかし屋敷の風情ある庭を残しつつ整備、開放されている。里地・里山の様な緑地を育てる工夫もされている。また、緑地に関する鎌倉の条例で植物の持ち出しや園芸種の持ち込みは許されておらず、ボランティアが活動により、この地域の里山の植生を生かした取り組みが行われている。造成後の土地に、どのような植物が生育するか観察され、取捨選択を行い繁殖力の強い特定種の占拠がないよう繁殖抑制や除去を行っておられる。特に繁殖力の強いハキダメギク、ハルジオン、ヒメジョオン、トキワツユクサの除去を行い、植栽の場合は園芸種や他地区の植物は持ち込まず、鎌倉の伝統種を苗から育て植える活動をされている。今年度植栽された植物はオカトラノオだと言う。
(写真:瓜ヶ谷緑地フェンス外)
話しをやぐら群に戻す。この緑地に危険防止の為に網目状のフェンスが張られ、その奥に存在する。今回地元の人に付いて入っていくことが出来た。竹林を少し行くと燈籠が有り、その先に岩の崖ぶちが見え、その下に三穴のやぐらが存在する。手前からの一号穴は入り口が約一・八メートルの正方形に近く、木枠の観音扉状を着けるための形跡が残されていた。やぐら内に入るには一・五メートルほど入り、やぐら内は約五メートル四方で、けっこう暗いく、骨壺等を納める場所は見当たらない。やぐら内の側面の堀は楔を打ったような鑿跡を残しており、穴の左側に明り取りの穴か、もしくは通気性を保つ穴(横約三十センチ、縦約六十センチ)が掘られ、外部に通じるため、木枠でふさがれていた溝が刻まれている。
(写真:一号穴)
二号穴も一号穴と同様の構造と大きさで、こちらは入り口から一メートルほどに観音開きの木枠をはめ込む幅十センチ、奥行き八センチほどの縦に溝が明確に彫られている。そこから五十センチほどで、やぐら内に入り右側に明り取りか通気性の為の穴が掘られている。そして、その右の下には棚状の段差が作られており、納骨壺あるいは五輪塔を安置されたと思われる。一号・二号穴と、明かり窓は作られているが、やぐら内は暗い。この広さのやぐら内で本来五輪塔や石仏等が置かれていたと想像する。また、やぐらの掘方が非常に巧みな点、室町期の前・中期に掘られたのではないかと考える。
(写真:二号穴)
そして、三号穴と思われる穴は地面から高さ五十センチほど横一・二メートルほど掘られ土が堆積しているので内部は、あまりうかがう事は出来ない。
(写真三号穴と思われるやぐら)
大船の多門院の全身であったとされる観蓮寺については、この瓜ヶ谷にあったとされ、永享の乱(1438~39)で衰えた観蓮寺を甘粕長俊(後北条氏に仕えた地侍で甘粕氏は相模平氏の出身の一族)が大船に移し寺名を改め、天衛山福寿寺多聞院とした。『鎌倉市史社寺編』山ノ内瓜ヶ谷に観蓮寺屋敷と言う田が有り多門院の持である」、『鎌倉廃寺辞典』勧蓮寺は当寺(多聞院)の旧号と記載されているだけである。邸宅の跡地が平場であり、後世に造成されたかもしれないが、裏の竹林や、巧みな掘り方のやぐら群を見ると、ここに勧蓮寺があったのではないかと思わせる。
今日一日、本当に貴重な体験をさせて頂いた、お二人に感謝申し上げます。また、素晴らしい、やぐら群を保存されておられる、鎌倉やぐらの森の会、瓜ヶ谷町内会を中心としたボランティアの人たちのご尽力に感謝申し上げます。
ハイキングコースとして「やぐら散策コース」を考えてみた。JR北鎌倉から瓜ヶ谷の道には入り、西瓜ヶ谷やぐら群、瓜ヶ谷緑地、東瓜ヶ谷やぐら群、折り返し梶原に行く道に戻り葛原岡神社に入る道があり、葛原岡神社、源氏山、寿福寺の北条政子・源実朝の墓、このやぐらを見ると鎌倉期のやぐらと室町期のやぐらの違いが理解できると思う。そして寿福寺から今小路を通り鎌倉駅西口に着くおよそ三時間の行程である。また健脚の方は源氏山公園から大仏ハイキングコースに行き大仏坂切通のやぐら群を見る事が出来る。春になると花も咲き始め良い散策になると思われる。