一月三十一日の日曜日、気温が高く、好天に恵まれ、浄智寺から上がる葛原岡ハイキングコースを歩く。鎌倉のハイキングコースは、短時間で自然と歴史にまつわる石塔、石仏、そしてやぐらなど短時間で楽しませてくれる。しかし、運動靴以上の靴は必要である事は、心構えをして欲しい。今日は、北鎌倉の浄智寺から葛原岡ハイキングコースを歩き、葛原岡神社、源氏山公園、源氏山山頂、そして寿福寺へと下りる予定にした。十時にバスで明月院前に行き、浄智寺の脇を通って行く。
(写真:浄智寺総門と唐様鐘楼門への石段)
浄智寺は五代執権北条時頼の時代に中国から伝えられた禅宗が鎌倉幕府の庇護のもと、最も栄えた時期であり、鎌倉五山第四位での寺であった。北条時頼の三男宗政が二十九歳の若さで没し、まもなく宗政夫人が一族の助けを得て寺を起こした。亡夫と幼少の師時を開基として、宗政の菩提を弔う為に創建されている。八代執権北条時宗が伯父である師時は、時宗の子・貞時と兄弟のように育てられ、後に十代執権となった。
(写真:浄智寺唐様鐘楼門、仏殿)
浄智寺の山号は金宝山で、宗派は臨済宗円覚寺派。開山は南洲宏海、大休正念、兀庵普寧(ごつたんふねい)。開基は北条師時。創建は弘安四年(1281)である。開山には南洲宏海、大休正念、兀庵普寧の三人の名を連ねている。当初、南洲宏海が開山に招かれたが、大任すぎる事で身を引き、師の仏源禅師大休正念を講じて入仏供養の儀式が行われた。すでに亡くなっていた師僧の中国で名僧の兀庵普寧を開山に立て名誉を遺贈したため、複雑な形を取る事になった模様である。請待開山に仏源禅師大休正念を仰ぎ、日本人である南洲宏海は当初から二世を名乗ったのではないかと『新編相模国風土記稿』では推論している。
この北鎌倉では樹木に覆われた谷戸の谷合の中で堂宇が並んでいる。車の多い鎌倉街道を外れると、一瞬に鬱蒼とした景観に代わる。「寶所在近」(ほうしょざいきん)を掲げた総門の前に池があり、掛かる苔生した石橋の横に鎌倉十井の甘露の井がある。総門の石段を上ると唐様鐘楼門が建っており、二階が鐘楼になっているのが珍しい。仏殿に祀っれている本尊の木造三世仏座像(県重文:向かって左から阿弥陀・釈迦・弥勒の各如来で、過去・現在・未来の時を代表する)の横を通り、手を合わて道を進んでいった。
(写真:浄智寺からの登り道)
住居がある緩やかな道を登って行く。次第に舗装路から土道に替わり、山の雰囲気が感じ取られる。夏場にここに来ると湿度と暑さにヘキヘキする。秋から冬の時期が一番いいかもしれない。枯れ枝の向こうに風景が見えるからだ。少々歩くと、もう浄智寺から葛原岡神社との中間点ほどにある天柱峰(標高九十七メートル)に着く。この天柱峰は中国の元から来日し浄智寺の住職を務めた竺仙梵僊(自薦梵僊)により名付けられたとされ、山頂部の「天柱峰碑」は昭和十六年に建てられた。
(写真:葛原岡ハイキングコース道標、天柱峰碑)
そして、木枠の手すりのある階段を下り、登ると葛原岡神社に到着。神社に参拝し、境内の素との休憩所ベンチで、喉を潤し、ウインドコートの中のセーターを脱ぐ。横に柴犬を連れ散歩する人に出会い。犬と一時の会話。この周辺のワンチャンは、このような自然の中で散歩させてもらえることは非常に幸せと思う。自身飼っていたパピヨンの拓也と快を思い出す。亡くなって十年近くになるが、二匹は一年ごとに亡くなった為その後、悲しみのあまり犬を飼う事ができなくなった。今は、住居の周りでも、よく犬に触れさせてもらっている。
(写真:葛原岡神社に向かう山道、葛原岡神社)
葛原岡神社から日野俊基の碑を過ぎ真っすぐ源氏山公園に向かい源頼朝像の前に着く。晴天の中に浮かぶ頼朝はとても良い。曇り空の時は何やら思いいふけ悩んでいるように思う。そう思うのは私だけだろうか。頼朝像を通り源氏山山頂に向かう。山頂に二基の石塔が不正列に置かれ、この石塔については調べ切れていない。晴天の山頂から枯れ枝の向こうに富士山の山頂が見えた。
(写真:源氏山公園源頼朝像、源氏山山頂からの富士山)
山頂を下ると寿福寺に降りる標識があり、少し行くと明月院の墓地が見え、そこから土路の下り坂になり、途中に太田道灌の墓が在る。南北朝期から室町期にかけ扇ヶ谷は扇谷上杉家の館があった。足利氏の鎌倉公方を補佐する関東管領職が上杉氏に与えられ山ノ内上杉が関東管領職を独占することになる。上杉は、繁栄と共に拡大していき、主流の山之内、庶流の犬縣、扇谷と分れている。従って扇谷上杉家は山ノ内上杉家を支える分家的な存在であり、その扇谷上杉の家臣で武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰であった太田氏であった。太田氏もこの上杉屋敷の一角に居を構えていおり、太田道灌は江戸城築城したことで有名であるが、武将としても学者としても一流と定評がある。しかし、山ノ内上杉、扇谷上杉の争いに巻き込まれ、文明十八年(1486)謀殺され、太田氏は没落する。英勝寺は本来、太田道灌邸であったと云わり、英勝寺の開基は徳川家康の寵愛を受けた「お勝の方」が家康没後、英勝院尼(太田道灌五代の子孫で水戸藩の基礎を作り上げる)となり、先祖のこの地に建立した寺院である。
(写真:源氏山山頂、太田道灌墓、壽福寺への下りる道)
この道を私が好きなのは壽福寺の傍の岩に覆われた小道を過ぎるのが、何と言っていいか、趣きがあるからだ。その都度、岩の年月と歴史を感じさせてくれる。
(写真:寿福寺への岩で覆われた道、寿福寺墓地のやぐら)
そして寿福寺の墓地には入り、北条政子、源実朝の墓にお参りし、寿福寺に降りる。この寿福寺は一般公開されていないが、鎌倉の敢行する人が多く集まる。山門から延びる参道が木々に覆われる風景は人の心を落ち着かせる、また寺院から逆に山門を見るのも趣きがある。そして八坂大神、巽神社の今小路を通り鎌倉駅西口に十一時四十分に着く。ちょうどいい散歩だが、帰りはバスに乗り小袋谷に戻った。
(写真:北条正子墓、源実朝墓
(写真:寿福寺参道と壽福寺山門)