鎌倉散策 北畠顕家、五『北畠顕家奏上文』 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 延元三年/暦応元年、五月二十二日に顕家は和泉国堺浦の石津の戦いにより戦死する。その一週間前の十五日に後醍醐帝に対し諫言(かんげん)として『北畠顕家上奏文』を著している。一週間後の大軍を相手に戦死する歴史的事実も絡め、悲壮な決意や憂国の情感を読み手の心に刻む美文であり、当時の後醍醐天皇の政治の在り方や、同時代人、特に貴族社会・知識層の代表者達が、がどのような受け止め方をしていたか、と言った点を知る簡潔な手がかりになる歴史的資料として価値の高い上奏文である。

 父の親房は、この翌年に南朝の正統性を示した歴史書『神皇正統記』を執筆するが、『北畠顕家上奏文』が『神皇正統記』との文体・思想の共通点も指摘されている。『北畠顕家上奏文』の上奏内容についてはウィキペデアを参照引用させて頂く。

『北畠顕家奏上文』、第一条の最初の部分が掛けているが、残された文面により大尉は掴むことが出来る。

一、「地方分権制推進」、顕家は地方分権制を献策する。顕家によれば、いま奥州(東北)がある程度治まっているのは建武政権がいちはやく陸奥将軍府を置いた効能であるという。ところが、建武政権ではこの政策が徹底されず、建武の乱の際には、九州に人がいなかったので、そこで尊氏が再起して(多々良浜の戦い)、乱に負けてしまったのだ、と後醍醐天皇の地方分権策の手落ちを非難する。さらに、顕家は、今後は、顕家自身の統治する奥州だけでなく、西府(九州)・東関(関東)・山陽・北陸と、(奥州を含めて)計五つの地方に半独立の地方政権を立てて、それぞれに大将を送るべきである、と主張した。

 

ニ、「可被免諸国租税専倹約事」(租税を下げ贅沢を止めること)、諸国の租税を免じて、つとめて倹約するべきことを主張している。この条項では、戦争によって民が重税に苦しんでいるので、奢侈(しゃし:必要な程度や身分を超えた贅沢)を断ち、(三年のあいだ課税・労役を止めたという)仁徳天皇の事績に従えば(当時理想の聖君と考えられていた)後醍醐天皇のような威徳を得ることができ、敵もみな帰服して戦乱が終わるだろう、と説いている。また、謀反人(北条氏など)から没収した土地に新しく補任した地頭に対する賦課も減免せよ、と説き、建武の新政では、元弘の乱直後にも関わらず大内裏の造営計画が進められており、顕家にはこの事業に伴う多額の支出と増税が念頭にあったと考えられる。

 

三、「可被重官爵登用事」(恩賞として官位を与える新政策の停止)、この条項で、顕家の思想に特徴的なのは、「能力」と「成果」を切り分け、おのおのの長所を混同せず、別の種類の報奨である「官位」と「恩賞」をそれぞれ与えよ、と考えていたことである。つまり、能力のある人には官位を与えて朝廷に任官登用し、たまたま成果はあげたものの能力はそれほどでもない人物には土地と俸禄を恩賞として与えよ。

官位と恩賞は同列に扱ってはならない、と指摘している。

 

四、「可被定月卿雲客僧侶等朝恩事」(公卿・殿上人・仏僧への恩恵は天皇個人への忠誠心ではなく職務への忠誠心によって公平に配分すること)公卿・殿上・仏僧への恩恵を公平にすべきことを主張している。また、この条項では、公卿と言えども、天皇の側に侍っておべっかを使うだけではなく、実際に働いて自身の職分をこなすべきである、と意見する。同様の、高位の者には格式と能力の両方が求められるとする思想は、親房の『神皇正統記』にも見られる。その他、貴族・僧侶に対しては国衙領や荘園を与え、功績のある武士に対しては元弘の乱での謀反人(北条氏ら)から没収した地頭職を与えるべきである、とも説く。かつては、両者が厳密に区分されていたのだが、建武政権では例えば東寺に対し若狭国多良荘の地頭職が与えられるなど、境が曖昧となっていた。また、累代の貴族で不忠な者は確かに憎むべきものではあるが、その官職や所領を没収して武士の恩賞に充てがったのでは、有職故実を知り、朝儀を守る者がいなくなってしまうのではないか、陛下個人への忠心ではなく、公務への忠心で功を考えるべきではないか、とも警告する。

 

五、「可被閲臨字行幸及宴飲之事」(臨時の行幸及び宴飲を閲(祭尾)かれるべきこと)、(仮にもし京都を奪還し日本を統一ても臨時の行幸・酒宴は控えること)、仮にもし京都を奪還し日本を統一できたならばその後の)臨時の行幸及び酒宴は止めるべきことを主張している。「行幸はそのたびに、官吏が古式通りの威儀振る舞いをしなければならないため、多大な費用がかかる。ましてや、酒宴は鴆毒(ちんどく、猛毒)として古代中国の聖天子たちも戒めたところである。仮にもし京都を奪還することができたならば、そのときは臨時の行幸や長夜の酒宴は一切止めて頂きたい。(『漢書』に曰く)前車の覆るを後乗の師と為せ、というが、あらゆる民の願いがここにあることは明白である」と説く。「前車」(前の戦車)とは直接には奢侈で滅んだ中国の諸王朝を指すが、暗に建武政権のことを指すとも考えられ、そこでの失敗を学んで「後乗」(後ろの戦車)つまり現政権に活かすように進言している。奏上文は本来本人が奏上するもので、実際、顕家が後醍醐帝に手渡したのか、その時期は何時かだったのか、奏上文を見ると

 

六、「可被厳法令事」(法令を厳にせられるべき事)、法令をおごそかにすべきことを主張している。法の運用は国を治める基本であり、近年の法令改革を繰り返して朝令暮改で混乱した状況では「法無きにしかず」(法律がない方がましである)と厳しく批判し、漢高祖の「法三章」の逸話(秦始皇帝の複雑な法体系とは違い、「殺人・傷害・窃盗」のみを禁じた単純で運用のしやすい法律)のように簡明で、堅い石を転ばすことが難しいように、ゆるぎない堅固な法を作るべきである、と述べる。 

 

七、「可被除無政道之益倶勅寓直輩事」(政道の益無く寓直の輩をを除かるべき事)、政治を行う上で無益なのに天皇の側に侍っているような連中を排除すべきことを主張している。「政治能力があれば卑しくとも取り立て、政治能力がなければ門閥出身でも取り除くべきである。現在、公卿、女官及び僧侶の中に、重要な政務を私利私欲によりむしばんでいる者が多く、政治の混乱を招いている。それは、都から遠く離れた陸奥鎮守府の辺りですら衆人から批難の的となっている」と証言する。具体的には、寵姫阿野兼子(後村上天皇の母)や側近の僧侶円観(『太平記』の主要編纂者)・文観(肖像画『後醍醐天皇像』の作者)らのことを糾弾していると考えられる。

 

 「跋文」もまた格調高い漢文で結ばれる。「私はもともと書巻を執る者であるのに(村上源氏中流家庶流北畠家は大覚寺統に和漢の学問を家業として仕えた学者の家系)、かたじけなくも鎮守府大将軍の武官を承り、二度の大遠征で命を鴻毛に斉(ひと)しいものとして、虎口を脱してきた(命を賭した戦いを凌いできた)のも、全ては陛下のためである。どうか私がこれまで述べてきた非を改め、『太平』を為して頂きたい。もしそれが叶わなければ、私は范蠡(はんれい:越王句践の覇業を助けたが王から妬まれる前に引退した賢臣で政治家・軍人)のように官職を退き、伯夷(周武王への諫言が聞き届けられず隠者となった聖賢)のように山林に入って隠者となりましょう」等々と壮烈悲愴な覚悟を述べる。

 奏文のうち現存第1条の「地方分権推進」は、建武政権・南朝の統治機構へ言及したものとして、特に注目される。残る6条のうち約半分が後醍醐天皇の人事政策への不満に集中していることも特徴である。現存する文書は、顕家の叔父で真言宗醍醐派の高僧金剛王院実助が何らかの形で草稿を入手し、それが応永(1394–1428年)初頭に書き写されたものが醍醐寺に残ったと思われる(『醍醐寺文書』)。顕家の諫言は後醍醐天皇の「失政」を的確に突いたものであると評価されてきた。

 奏上文は、本来本人が奏上するもので、実際、顕家が後醍醐帝に手渡したのか、その時期は何時かだったのか、疑問が浮かぶ。奏上文を見ると顕家は後醍醐帝の失政と今後の対策について説いており、五月六日に和泉堺浦に入ってから戦死するまでの間に距離的には直線で四十キロくらいだが金剛葛城山を超え吉野へ往復するには三・四日はかかる。また、北朝勢が多い和泉堺浦の戦場から離れることは出来なかったと思われる。しかし、三月十六日、阿倍野で初めて敗れてから五月六日に和泉堺浦に入る期間、顕家の行動を示すものが無い。奏上文には、覚悟を示す内容は書き留められているが、死を表す行動成りの記載が見当たらない。後醍醐帝に奏上するには、この時ではないかと自身想像する。―完