鎌倉散策 鎌倉幕府の衰退と滅亡、十八「挙兵」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

十八、挙兵

 元弘二年年四月三日、楠木正成が再び現れる。正成は赤坂城は兵糧が少なく兵糧を届ける使者を襲い、それと入れ変わり、兵糧の俵に武具を隠し夜陰にまぎれ赤坂城に入った。湯浅成仏は戦うことなく降人となった。正成は泉・河内をおさえ、五月には住吉、天王寺に進出する。京は大騒ぎとなり五月二十日、六波羅探題は隅田次郎佐衛門・高橋太郎を軍奉行とし五千の軍勢を派遣した。渡辺橋(摂津国西成郡渡辺にあった橋、淀川河口とされている。現在の大阪市北区堂島川の渡辺橋と場所的に違う)の南側に布陣し、渡部橋の北側に着くと楠木正成の兵力が僅か三百騎ほどだったため、幕府軍は一斉に我先にと川になだれ込んだ。これは正成の策略で前日まで主力の二千余騎を住吉・天王寺に残し、当日三手に別れ、幕府軍が川の深みに入った所を一気に突く策略だった。正成は目論見通り幕府軍が川に入り陣形が崩れた所、三方から攻め幕府軍は大混乱の中、水に溺れる者多く、討たれる者も多く、残りは命からがら京へと逃げ帰った。

 

(写真:宇治大橋と宇治川)

 京の六波羅では、大敗を知らされ、続き宇都宮公綱を天王寺に向かわせた。正成は公綱が武勇に優れていることを知っており、河内の和田孫三郎が七百騎ほどで4公綱に対し、勝期に乗じ攻め寄せる事を進言するが、「合戦の勝負必ずしも大勢、小勢に依らず、ただ志を一つにするとせざるとに依れり「大敵を見ては欺き小敵を見ては恐れよ(後漢書・光武帝紀)と申すはここなり」と天王寺から軍を引く。しかし夜になると、難波(大阪周辺)の周りの山々に篝火を焼かせ、何時襲撃されるか分からない心理戦の遠攻めを取った。公綱の軍は連夜に続く篝火が包囲されていると思いこむ。休むことなく防備を維持しなければならず疲弊し、七月ニ十七日夜半、天王寺を去り京に向かっている。翌日には入れ替わり正成が天王寺に入った。正成の兵の統制は良く、庶民に対する兵の略奪等もなく、兵に対しての礼を似て接していた。正成の勢力は、さらに増強拡大していく。

 

 天王寺に入った正成は寺僧に頼み聖徳太子の未来記を披見視させてもらい解読し、鎌倉幕府の滅亡と先帝の還御が遠からぬことを知ったとされる。これらは『太平記』第六巻、太子未来記にきさいされている。前にも述べさせていただいたが、『吾妻鏡』は日本の歴史書に分類されるが、それでも、北条家に対し贔屓目なところは隠し切れない。しかし『太平記』は日本古典文学の一つであり、歴史文学に位置づけられるため南北朝期、室町期において作られ、足利尊氏を正当化と美化する誇張が多く含まれた物であることを認識しなければならない。しかし、『太平記』を読むと面白い。

 

 元弘二年十一月、吉野に籠る後醍醐天皇の第三皇子護良親王が父後醍醐天皇に変わり令旨を発し、幕府への反発勢力を募った。畿内各地の寺社や野伏に討幕軍の参加を呼びかけ勢力を次第に増強していく。元弘三年一月ニ十一日、赤松円心が、子息則祐を通じ大塔宮令旨を手に入れ挙兵する。幕府はこの事態に驚愕し、再度大軍を畿内に数十万の兵を派遣し、吉野、赤坂、金剛山の城に派兵した。護良親王は延慶三年(1308)尊治親王(後後醍醐天皇)の第三皇子として生まれ、母は民部卿三位(北畠師親)の女資子もしくは勘解小路経光(広橋経光)の女経子とされている。正中二年(1325)には梶井門跡門主、嘉暦二年には二十歳で叡山の天台座主に就いた。『太平記』では武芸を好み、仏教の修行や学問には一切かかわらず、毎日僧兵と武芸の訓練を熱心に行う不思議な天台座主と記されており、武芸はかなりの腕前であったとされる。

 

(写真:護良親王:、大塔宮を祀る鎌倉宮)

 元弘三年(1333)一月に京都に到着した幕府軍は、千早城に向かう河内道を大将阿曾治時、軍奉行長崎高貞。吉野に向かう大和道を大将大仏高直、軍奉行工藤高景。赤坂城に向かう紀伊道は大将名越宗教、軍奉行安藤円光に別れ進軍した。赤坂城は水利のない事を見抜かれ、水に窮して落城。平野将監(しょうげん)らの降人を見せしめの為に、すべて斬殺する。この事を知った千早城や吉野では降人に出る者がいなくなり徹底抗戦が語られた。吉野では城郭を構え三千騎の軍勢で幕府軍と一進一退の攻防が続いたが、背後からの奇襲を受け大塔宮の軍勢は総崩れする。大塔宮は自害を覚悟するが忠臣とされる村上義光(よしてる)に叱咤され城を落ち延び、義光は大塔宮に変わり自害、子の義隆は討ち死にしている。

 

(写真:新田義貞像)

 二月、幕府軍の数万の軍勢は正成の籠る千早城を攻撃するも正成の知略を用いた防御で幕府軍を撃退する。幕府軍は次第に士気も乱れ、くぎ付けとなり苦闘する日が続いた。大塔宮の命を受けた配下の吉野、十津川、宇多、内郡の野伏が幕府軍の兵糧を運ぶ糧道を断ち、これにより幕府軍は兵糧がたちまちに尽き、人馬とも疲弊し、十方に逃げ去る。そこに野伏が要所ごとに待ち受けて討ち取ると言う段取りとなった。金剛山の攻撃の寄手に加わっていた新田義貞は、それらの光景を見てか、後醍醐天皇に着くことを決意したとされる。執事の船田義明の謀で大塔宮の令旨を手に入れ、病と称し即刻上野国に帰国する。新田義貞が領地の新田庄に帰ると幕府は金沢出雲介親連と御内人黒沼彦四郎により経済的に潤う世良田宿への過重な兵糧米賦課と「天役」と名目して軍資金六万貫を、まして期限を着けて迫って来た。あまりにも傲慢な使者の金沢出雲介親連を幽閉、黒沼彦四郎を殺害し、幕府から追討を賭けられる。

赤松円心は山陽道・山陰道をふさぎ西国から来る御家人の軍勢を止め、兵庫の北の摩耶山に城を構えていた。四国では土居次郎・得能弥三郎が挙兵し長門探題上野介時直の軍を打ち破っている。

 

(写真:後醍醐天皇像)

 閏二月、後醍醐天皇が警護役の佐々木義縄(よし綱)の手助けで六条忠顕と共に隠岐を脱出して伯耆国名和湊に着いた。名和湊の長者で海運業を営む有徳人の名和長年に勅使を送り、長年の弟長茂ら一族の意見により後醍醐天皇を船上山に迎え入れた。船岡山には城郭を構え、追撃して来た佐々木隠岐前司らの軍勢が船上山を攻めたが敗れ去る。後醍醐天皇は、あらゆる領域の人々に係り、悪党を引き込み、山野・河海で働く人々を広く掌握し、このような王権至上主義が倒幕をもたらす公武一統の建武政権が成立していく。戦況は膠着状態となり、幕府側にとって長期戦は不利になる。戦況の一新を図るため再度足利尊氏に出陣の命を出した。 ―続く

 

(写真:足利高氏像、「太平記絵巻」足利尊氏出陣、スペンサー・コレクション蔵)