鎌倉散策 鎌倉幕府の衰退と滅亡、十五「後醍醐天皇」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

十五、後醍醐天皇

 両統創立において天皇家は嫡系により継承され、庶子の場合は一代切と言う決まりが作られており、本来、後二条天皇が若くして崩御されなければ後醍醐天皇は皇位に就くことはなかっただろう。

 

 正安三年(1301)伏見院、後伏見天皇の持明院統の治世が両統送立において幕府の勧告により終了した。代わり大覚寺統の後二条天皇が践祚(せんそ)(皇嗣:こうしが天皇の地位を受け継ぐ)され後宇多の院政が開始される。しかし後二条天皇が延喜元年(1308)に崩御され、持明院統の十二歳の富仁親王が践祚された。この時、大覚寺統は皇太子に後二条天皇の弟を尊治(たかはる)親王、後の後醍醐天皇を立てた。大覚寺統は幕府に皇位移譲を幕府に執拗に働きかけた。花園天皇も後醍醐天皇も庶子であるため一代切ということになり、文保元年(1317)、四月、幕府は東使摂津親耿が皇位をめぐり対立する持明院統と大覚寺への仲裁案「文保の和談」を提示する。その内容は大覚寺統にとって有意なもので、後醍醐天皇が践祚され、皇太子に後二条天皇の子邦良(くに長)親王を皇太子に建てる事であった。そして文保二年(1319)二月、後醍醐天皇が即位し、父後宇多法皇の院政にて治世が開始される。後宇多法皇は寵愛していた後二条の没後は密教に傾倒し、孫の邦良親王を正嫡としていた。これについて諸説があり、父後宇多法皇と後醍醐天皇とは不仲であり、後醍醐天皇は政務を自ら行う親政に後宇多法皇に執拗に迫り、元亨元年(1321)、幕府の同意を得て後宇多の院政を廃止し、親政を開始したという説と、後宇多法皇は後醍醐を信頼し後醍醐・邦良による大覚寺統体制を確立し持明院統の廃絶を狙ったとする説がある。邦良親王に男子(康仁親王)が生まれ邦良親王の皇位継承の時期に後醍醐天皇が治天の君と立てたのは、やはり後宇多が後醍醐を信任していたと考える。

 

 

 

 後醍醐は親政において記録書を再興し万里小路宜房、吉田貞房、北畠親房らを側近に加え、家格にとらわらず日野資朝・俊基らを積極的に登用した。元亨四年(1324)九月十九日、後醍醐天皇の倒幕計画の謀叛が密告により発覚。この謀叛の陰謀に与していることを密告された土岐頼有・多治見国長のもとに六波羅から武士が出向き六波羅出頭を命じるが従わなかった為、合戦の末に頼有・国長は自害している。同日末刻に六波羅の使者が北山の関東申次西園寺実衡邸に向かい陰謀の張本人として民部卿の日野資朝の蔵人少納言日野俊基を召し賜ることを要求し、俊基が・資朝が六波羅に出頭した。

 同ニ十三日には、勅使の万里小路宜房が鎌倉に下向し、一月後に帰洛し事が穏便に収まったことを奉告している。この時宜房が鎌倉に持参した後醍醐天皇の書状には、「関東は戎夷(じゅうい)なる。天下の管理しかるべからず。率土の民皆皇恩を荷う。聖主の謀叛と称すべからず。ただし陰謀の輩。法に任せて尋ね沙汰すべし」と書かれていた。後醍醐天皇の虚勢を張った上での責任逃れを弁じたとされる。また幕府は後醍醐天皇の責任を不問に付する事にした。これは後醍醐天皇の書状においての気迫に押されたとも思われるが、幕府事態に断固たる措置を取る能力に欠けていた事は言うまでもない。

 

 宜房帰洛と入れ替わり、後醍醐天皇の腹心の側近である日野資朝、俊基、祐雅法師が鎌倉へ護送され、資朝・俊基ともに無実とされながら、資朝は佐渡に配流され、祐雅法師は追放されている。資朝は完全に疑惑が晴れてはおらず無罪とも言い難いとした曖昧な理由であったようである。花園上皇は、資朝が配流になったのは何れの罪によるかと疑問を自身の日記に書き留めている。また、後日に伝聞を追記し、幕府最大の実力者であった得宗内官領の長崎円喜(高綱)が「資朝の書状に不審があるので見せたところ、弁明は不確かだった。しかし恐ろしい事であったので、厳密の処置を行わず、無実であると報告した」と語ったと記しており、不可解な対応を示す。この年の十二月九日に改元されて成虫元年となり、この事件を正中の変と呼んでいる。十三『正中の変』で詳しく記載したが現在では、この変は冤罪であったという説が主体であり、後醍醐天皇はこの時点で討幕を考えていなかったとされる。嘉暦元年三月、邦良親王が急逝する後醍醐天皇は一宮(第一皇子)の尊良親王ら四人を皇太子候補に立てたが、持明院統の嫡子量仁親王(後の光厳天皇)が皇太子になり、譲位の圧力は強まって行った。

 

 後醍醐天皇が行った建武の新政は氏族支配による統治ではなく土地区分や統治を概念に日本で初めて作り上げている。裁判機構に一番一句性を導入。形骸化していた国や郡の地域の下部機構を強化する事で統治を円滑にする手法は移行全国的な統治制度の基礎となった。また、土地の給付に強制執行を導入し、弱小な勢力でも安全に土地を拝領できる仕組みを始めて全国的・本質的なものとした(高師直への継承)と官位を恩賞として用いた。そして武士に初めて全国的な政治権力を与え陸奥将軍府や鎌倉将軍府などの地方分権性の先駆けを作っている。

 

 後醍醐天皇崩御後に完成した『太平記』では好戦的であり、独裁的暗君として描かれ、(1960)代の佐藤進一学説や(1980)代の網野善彦の「異形の王権」論が主体であったが、森繁暁らによる実証的研究が積み嘉瀬鳴られ二十世紀末に市沢哲は建武政権の政策には鎌倉期後半の朝廷政治の連続性が見られ、また、伊藤喜良は建武政権が短命であったが、その内部には現実的な発展がみられるとしている。現在においては建武政権の崩壊は偶発的事象の積み重ねによるもので必然ではなく後醍醐は高い内政的手腕を持ちまた人格的にも優れた人間だったと評されるようになった。 ―続く