鎌倉散策 鎌倉幕府の衰退と滅亡、十四「嘉暦の政変(嘉暦の騒動)」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

十四、嘉暦の政変(嘉暦の騒動)

 正中三年(1326)三月十三日、高時は病の為ニ十四歳で執権職を辞し、出家する。父貞時と同様に得宗の地位においてはゆるぎなかった。次の執権の選定は難航する事になり、連署であった金澤貞顕は高時と共に出家を望むが、得宗家により阻止され、逆に執権の就任要請がなされる。

 

 高時には得宗被官五大院宗繁の妹を母とした長子邦時が生まれていたが生後百日ほどであり、執権職の中継ぎとして貞顕に就任要請が出された。長崎高綱の子高資が邦時の乳母夫であり、長崎氏にとって中継ぎの貞顕の就任は都合がよく強引に就任させた。金沢氏は北条一門であり幕府の要職を歴任するが原則として連署までの出あり執権を就任するには前例もなく例外であった。しかし、これに反発したのが安達時顕で高時の正妻は時顕の娘で、邦時が得宗の家督を継げば、外戚の地位を失う事になる。よって時顕は高時の弟の泰家を擁立し、その間、高時の子が生まれるのを待ち外戚の地位を守ろうとした。そして嘉暦元年(1326)三月十六日に金沢貞顕が十五代執権となる。金沢文庫に残されている金沢貞顕書状において「愚老執権の事、申十六日朝、長崎新兵衛尉を似て、仰せ下され候の条、面目極まり無く候」と書かれ、素直に喜び、その日から評定に出席している。しかし、すぐに辞退し在職期間はわずか十日余りであった。これは、貞顕らが就任したことにより高時の弟泰家が憤り出家をしてしまう。高時及び泰家に付く者が多く出家する事になり、反貞顕に貞顕が誅殺されると言う噂も流れ、連署に就く者もなく貞顕は執権職を投げ出して出家してしまった。

   

 長崎氏にとっては泰家が出家したことにより当初の目的は達せられ、貞顕の辞任はあっさりと認める。四月に第十六代執権として重時流北条久時の子赤橋守時が十六代執権、連署には大仏維貞が就任し事態を収拾した。守時は鎌倉幕府最期の執権となる。その後、高時の病は回復するが政権における権勢は著しく低下していき、長崎高綱は高齢の為、すでに嫡子高資が得宗内官領及び政権を管理していた。長崎一族の専権が目立ち、高資には行動力はあったが傲慢の誹りを受けるほどの強権を発動する。元徳三年(1331)、鎌倉において再び政変が起き、これを嘉暦の政変と呼ばれる。長崎高資を追討する陰謀が発覚したとし、叔父の長崎高頼以下北条高時の側近を捕縛した。高時はそれを否定するが、実際は高時による高資排除の陰謀であったとされる。執権赤橋守時も辞任を決意するが認められることは無く、これらの長崎高資の行動は幕府が得宗御内人北条高資の意のままになったことを表した。

 

 正中の変、嘉暦の政変において北条得宗家の権威も失墜し、このありさまを御家人達は横目で見ながら新たな指導者を待つばかりでありで、そして鎌倉幕府の滅亡はそこまで迫っていた。 ―続く