鎌倉散策 鎌倉幕府の衰退と滅亡、一「北条時宗の死後」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 

一、元寇後の北条時宗の死後

 弘安七年(1284)四月四日に弘安の役の戦後処理の急務の中、北条時宗は急死する。享年三十四歳であり、北鎌倉の瑞鹿山円覚寺塔頭仏日庵が廟所として置かれた。時宗の運命は元寇の対応の為に生まれ、そして没したと思わずに得ない。幕府は文永・弘安の役後の大きな問題が山積していた中、九代執権に時宗の唯一の子である嫡子貞時が十三歳で受け継ぐが、時宗の死から三ヶ月が経過した七月七日に十四歳で元服を済ませ、従五位佐馬権頭の官位を帯し、ようやく第九代執権として就任している。時宗死後の政局を巡る思惑があったのかもしれない。時宗の訃報を聞いた六波羅北の北条時村は直ちに鎌倉に下向しようとしたが阻止され、南方の北条時国は召喚され鎌倉に入らず常陸国伊佐郡に移され誅殺されている。また、叔父の北条時光も佐渡に流罪になっている(興福寺の満実法印との陰謀)。共に諸説はあるが、後の霜月騒動にて安達泰盛を討つ得宗北条家の被官人、御内人の平頼綱が安達泰盛と同人等が姻戚関係であった為に誅殺及び配流された。

 

 五代執権北条時頼は時宗がいずれ執権となる「得宗家後継序列」を作り、時宗が執権になった際、時宗の弟宗政・宗頼が補佐する道筋を立てた。時宗の執権時には弟の宗政、宗頼の両弟が時宗及び北条得宗家を支え元寇を乗り切ったが早命であり、宗政は弘安四年八月九日に死去、享年ニ十九歳であった。宗頼は弘安の役の二年前の弘安二年(1279)六月に長門国で死去し、生誕不明の為に享年は不明である。北条時宗は宗政の嫡子師時、宗頼の嫡子兼時の弟宗方を時宗の猶子とし嫡子貞時の兄弟のように育て貞時に仕えるよう期待をしていた。しかし時宗の早急な死により幼少の貞時には外祖父(血縁上は外伯父)である有力御家人で安達泰盛や北条家御内人、内官領の平頼綱が幕府の政務を担っていたため同年代の師時、兼時、宗方が貞時を支える事は、この時点で出来なかった。しかし師時は十代執権になっている。

 

 役後の諸問題は、第一に文永・弘安の役の御家人の功績、死傷による恩賞問題が国土防衛戦争であった為、恩賞として宛がう領地が無かった事。そして第二に幕府は御家人と朝廷・貴族・寺社の配下であった「本所一円地住人」の動員により、その領分にまで関与しなくてはならなくなる。第三に今後の異国警固対策であった。これに対し安達泰盛が全身全霊をかけ弘安徳政を発布し幕政体制の改革に乗り出すのであった。