鎌倉散策 極楽寺坂「上杉憲方の墓」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 極楽寺坂を上り、赤い桜橋の楼蘭が見えたところの反対側に「上杉憲方の墓」の墓と刻まれた小さな石碑建っており、今は案内板も掲示されている。人家の脇の細い道を奥に入って行くと、崖の下に苔むした五輪塔と多層塔が並び置かれている。多層塔は石の屋根が何十にも重ねられた石塔でここに置かれているのは七層の多層塔と五層の多層塔である。七層の多層塔の下の石の四面に阿弥陀如来像などの仏が刻まれており、これが上杉憲方の墓で、五層の多層塔が妻の墓とされている。

   

 上杉憲方は山内上杉五代投手で建武二年(1335)にうまれ、応永元年(1394)死没している。関東管領である父上杉憲顕の子として生まれ、兄能憲が病床の為、所帯等を譲られ。兄能憲の死に際に次兄憲春が務めていた上野守護職及び憲春の所領も憲春が知行すべしと譲られている。能憲死後、関東管領は憲春が任じられ、山ノ内上杉の家督は憲方に移された。憲方が兄能憲の養子とされている。憲春は康暦の政変時に鎌倉公方足利氏満が三代将軍義光を討つため京に向かうところ氏満を諫めたが諫言を無視し京に向かうが、憲春は諫書を残し諫死した。これにより氏満は京への攻め入る計画を中止している。その後、憲方は憲春の諫死により上野国守護、関東管領に任ぜられ、小山氏の乱の功績武蔵国、伊豆国、下野国、安房国守護と拡大した守護大名となった。

  

(写真:明月院山門とあじさい)

 室町時代に入り室町幕府は関東・伊豆・甲斐と関東以北の行政を行う鎌倉府を設置し、その長官として鎌倉公方を立て、鎌倉公方を補佐する役職として当初鎌倉執事として名称された。鎌倉公方の下部組織であるが任免権は京都の将軍にあり、当初、斯浪氏、畠山氏が関東執事を担ったが、次第に上杉氏が勢力を強め関東管領として世襲していくことになる。この件についてはあまりにも複雑で室町期の戦乱を起こす原因となった。そのため現在続けている歴史経過(現在元寇まで書き進んでいる)で記載し述べようと考えている。

  

(写真:明月院開山堂とやぐら)

応永八年(1394)十月二十四日、死去し享年六十歳で墓所は自身が建立した明月院にあるが、この極楽寺付近の上杉憲方夫妻の墓とも伝わる。また極楽寺坂の反対に非公開だが西芳寺跡とされる所に六つの五輪塔と逆修塔(生前に自身の死後の冥福を祈るため、あらかじめ立てる石塔婆)と言われる宝篋印塔が残されている。この方巨印東は上杉憲方の妻が生前供養に立てたとされている。