鎌倉散策 北条時宗と元寇 九「元寇後の影響」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

「元寇後の影響」

 文永十一年(1274)、元・高麗軍が本当に九州に侵攻した。文永の役において、あまりにも元の戦闘方式が日本武士と違い、兵員数も多く、日本武士が苦戦と言うより恐怖を覚えた。元・高麗軍の撤退の途中に海が荒れ数隻が座礁し、戦いの幕は閉じられたが、その際に戦った九州の御家人と幕府は常に再度の襲来に戦々恐々としながら、防衛対策を行った。この元寇において幕府は、まったく外交と言う手段を検討した形跡は見られない。幕府の対外政策は宋の無学祖元らの来日僧の提言などが行われ、徹底した無視を貫き武士の面目において粗暴であった。そして弘安四年(1281弘安の役)においては元・モンゴル軍の戦闘を経験した武士たちの奮闘と石築地が功をなし東路軍の進行は抑える事が出来たが、ほぼ互角の戦いであった。江南軍十万の兵がそこに加わったが、まさかの暴風雨により壊滅状態になったことで戦いに幕を閉じた。

 

 幕府は元軍撤退後の八月に高麗出兵を行う為に少弐経資家・大友頼康の御家人を擁し、また大和・山城の悪党五十六名を鎮西に向かわせることを計画したが、艦船の造船及び軍事費が多額の為、同二十五日に出兵を延期する。翌年の弘安五年(1282)十二月八日、無学祖元を開山、開基北条時宗として円覚寺の開堂供養が行われた。時宗は千体の地蔵を安置し、これを敬賛する無学の法語には「前年及びそれ以前に、この軍と他の軍の戦死したものと溺死したものが差別なく平等に救済されることを祈念する」と述べている。その後、元皇帝クビライは和戦両様の構えで日本招諭をつづけ、1294年二月十八日、七十八歳で没している。

 弘安七年(1284)四月に弘安の役の戦後処理の急務の中、北条時宗は急死する。享年三十四歳であり、北鎌倉の瑞鹿山円覚寺塔頭仏日庵に眠る。幕府は役後の大きな問題が山積していた中九代執権に時宗の嫡子貞時が十三歳で受け継ぎ、時宗の執権時には弟の宗政、宗頼の両弟が時宗及び北条得宗家を支えたが早命であり、北条時宗は宗政の嫡子師時、宗頼の嫡子、兼時、弟宗方を時宗の嫡子貞時の兄弟のように育て貞時に仕えるよう期待をしていた。しかし貞時には外祖父(血縁上は外伯父)有力御家人で安達泰盛や北条家御内人、内官領の平頼綱が幕府政務を担っていたため同年代の師時、兼時、宗方が貞時を支えることは出来なかった。しかし師時は十代執権になっている。

 

(写真:円覚寺山門、塔頭龍隠庵から見た円覚寺)

 役後の諸問題は、第一に文永・弘安の役の御家人の功績、死傷による恩賞問題が国土防衛戦争であった為、恩賞として宛がう領地が無かった事。そして第二に幕府は御家人と朝廷・貴族・寺社の配下であった「本所一円地住人」の動員により、その領分にまで関与しなくてはならなくなる。第三に今後の異国警固対策であった。

 恩賞問題は幕府の権勢の基盤となる御家人の恩賞を宛がう土地が少なかったが、恩賞の詮議は弘安四年十一月から弘安九年(1286)まで続き、少なからず恩賞は充てられている。しかし御家人の相続形態が確立しておらず、家の子弟に分割家相続が行われていた。役において武士達の家が全員討たれたりした場合の領地相続の紛争・訴訟も多く出た。そのため相続による家の縮小化が進み、御家人としての約役の負担が増し所領を失った「無足の御家人」の存在が多くなり、悪党へと移行していく。特に鎮西(九州)に御家人一族の紛争や戦功認定、恩賞要求・訴訟と非御家人「本所一円地住人」のおなじ恩賞要求・訴訟が多く鎮西談議所が置かれた。また北条時貞が肥前国守護として御家人の戦功申請の受理の為に下向し、正応六年北条兼時、名越時家が下向し北条氏の九州統治が強まった。しかし二年後兼時が病の為に鎌倉に戻り、永仁三年(1295)四月に時家も関東に戻り九州統治は曖昧なものになった。しかし、永仁四年(1296)に金沢実政が鎮西に下向し、一人体制で行われ、鎮西談議所が廃止され、正安元年(1299)に評定衆・引付衆が設置され最終裁断権を持つ鎮西探題となり、最終裁断権を持ったことで、幕府の出先権力機関としての機能を果たすことが出来た。

 
(写真:円覚寺他l中正続院、舎利殿)

 この元寇において幕府及び朝廷は『異族敗退』『異族降伏』等の神事祈祷を寺社に行わせ、この戦いが神戦と捉え主導し全国規模で一斉に行った。寺社が弘安の役も「神風」により国難を凌ぐ事が出来たと功を唱えた。これらは弘安の役が武士による軍事的な勝利では無いことが武士達は知っているが、僧や神官らは寺社仏閣で行われた神事祈祷で戦勝を得たと考え、恩賞に与かろうとした。しかし、戦勝により幕府への恩賞の期待は増大するが精勤のわりには恩賞を得られないと言う不満や矛盾が増大してゆく。この祈祷は延慶三年(1310)まで続けられ、いかに幕府が二度の役を経て再度の元の襲来を恐れていたかが窺える。

 弘安の役前後に非御家人の「本所一円地住人」の動員を得る事が出来たが恩賞等が御家人への優遇策が顕著になり、不満が募り非御家人が悪党として幕府・公卿・寺社に犯行を行う者が多く出現した。また、異国警固対策においても非御家人の「本所一円地住人」の動員による経費の負担も問題とされた。これらの諸問題は安達泰盛の弘安徳政などに引き継がれていくが、それが霜月騒動へと発展して行き、北条得宗家の政治機能が後退していき、後の鎌倉幕府滅亡の要因となって行く。

 

(写真:円覚寺塔頭、仏日庵北条時宗廟所)

 特に元寇において忘れてはいけないことは、この「神風」は日本の近代史の中で戦争に対する神国日本(大日本帝国)と助長させ、軍等に利用され、戦争に導き敗戦という鎌倉期の国難以上の状況を作り上げてしまう。寺社の行動が後世にただならぬ事態を引き寄せてしまう結果となった。歴史において検証と分析はどの時代においても必ず必要であることは言うまでもない。 ―完