鎌倉散策 北条時宗と元寇 八「弘安の役」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

「弘安の役」

 弘安四年五月三日、朝鮮半島南端の合浦から元・高麗の東路軍が出帆した。艦船九百艘の内、母船は三百艘で梢工(しょうこう)・水手一万七千二十九名で高麗の士卒九千九百六十名と記録が残されている。『高麗史節要』には、五月十六日にヒンド・洪茶久・金方慶の将が「日本世界村大明浦」従来は対馬島上県軍東海岸の佐賀の宗方大明神の鎮座する浦と解し、壱岐島に至り、六月六日に博多湾志賀島に到着した。東路軍の一部は宗方沖を進み長門における海上偵察行動を行った上、博多に向かっている。六月中旬には終結する約諾を行った江南軍(宋人を中心とした軍)が現れないため東路軍は壱岐島を兵站基地とし、最前線を志賀島・能古島として博多攻撃を行なう事を決定した。六日夜半に日本軍の襲撃を受けたが撃退し、八日には東路軍は海上戦だけではなく高麗軍の将である金方慶、金周鼎、朴球、朴之良らが砂州に迎え撃つために陣形を固め整えた。陸路から攻めてくる武士の猛攻を受けた高麗軍の陣形は崩れ洪茶丘は馬に乗って逃れたと(『高麗史節要』巻二十)に記録に残されている。そして文永の役とは異なり異国警固番役による石築地の構築と警護する兵の奮戦により、高麗・元軍は上陸することは出来なかった。また海上戦闘では日本船が脆弱でありながらも武士が敵艦船に向かい熊手で敵艦に取り付こうとするが、矢で射られたり、海に落ちる者など多く、ほとんど功績は無かった。しかし伊予国住人河野道有は兵船二隻を用い、敵艦に近づき郎等五人、叔父が敵の矢で討たれ、自身も肩に矢を受け弓が引くことが出来ず、帆柱を倒し、橋にかけ敵艦に渡り太刀を振るい船内の敵兵を散々切りまわったと言う。翌九日の戦闘は元・高麗軍は攻め寄せる武士に対し陣形を構え激戦が最も激しかったとされる。

 

 六月十八日、元・高麗の船は志賀島から離れ、その後壱岐島に向かい七月初旬まで壱岐島での合戦が行われた。『鎌倉遺文』十九・一四五八三号、一四六一一号)六月二十九日に薩摩国の御家人比志島時範が親類の河田盛資とともに島津長久の船に乗り壱岐島に渡って元・蒙古軍の上陸を阻止する戦いを行い、少弐資時が討ち死にをしている。また、松浦党の山城栄も壱岐の合戦で負傷した(『松浦党関係史資料集』一四三号)。海上においても武士たちの激戦が繰り広げられ肥前国御家人龍造寺末時が弟家益とともに瀬戸浦、小瀬戸、松島で戦い自身は討ち死にを遂げている。元・高麗軍は無駄な戦闘を避け、江南軍が到着するまで全軍を島から退却させた。しかし、この時期、太陽暦で言うと七月末から八月中旬にかけた時期に船内は、蒸し風呂のような暑さ、食料の腐敗と兵糧切れ、水の確保等が出来ず、艦内の環境が悪化し、伝染病まで蔓延したと言われる。

 

 六月中旬、壱岐海域で合流するはずであったが江南軍は司令官の阿刺罕(アラハン)が急病の為出撃が遅れ、阿塔海(アタハイ)が司令官として慶元(現、寧波)を出たのが六月十六日で、江南軍の行き先は平戸島に変わっていた。クビライの日本再征を宣言し、東路・江南軍の軍将が帰った後、中国沿岸で漂着した日本船の水手から平戸の方が太宰府に近く良港であるとの情報を得て変更された。東路軍と合流した日と場所等は諸説あるが決定的な資料はない。定説では七月初旬に平戸で合流したとされている。江南軍十万を含めてほぼ十四万、艦船約四千四百艘であったが、なぜか動きを見せずしばらく留まった。七月ニ十七日に全軍が鷹島周辺に移動する。鷹島は伊万里湾の湾口に位置し天然の防波堤となるため大艦隊の停泊地としては最適だった。ここで体制を立て直し、博多湾に突入し総攻撃を挑もうとしたと考えられる。

 七月三十日から閏七月一日にかけ暴風雨に襲われ、艦船が壊滅的な被害を受けたとされ、特に江南軍の被害が多かったとされる。『勘仲記』弘安四年閏七月一日条においても、この雨は京都でも夜通し雨と大風が吹いたと記載されている。現在の九月の台風である。江南軍の兵が帰国した者は五分の一の二万人に過ぎなかったと(『癸辛雑識(きしんざつしき』続集下)記載されている。また『高麗史日本伝』伝〇一七には「八月、大風に逢い、蛮軍(江南軍)みな溺死す。屍は潮汐(朝潮と夕潮)にしたがいて浦に入り、浦はこれがために塞がりて、践見てゆくべし」と記載されている。『八幡愚童訓』では「残る処の船どもは皆破れて磯に上がり奥(おき)に漂いて海の面は算を散らすに異ならず。死人多く重なってしまのごとし」とある。

 翌日、台風一過の青空と穏やかな海に戻り、東路軍の范文虎ら将軍は難を逃れ、船を曳き身分のある者を収容し、その他収容しきれない兵は置き去りにして高麗に戻った。日本の武士たちは奮戦し互角に戦いながらも十万の江南軍が出現し恐怖を抱いたに違いない。しかし日本の武士たちは、破壊された艦船と溺死した多くの敵兵の光景を見て驚嘆し、この暴風雨にさらされた元軍は壊滅状態で、楯鉾弓矢と剣も流され、裸の者も多く存在したと言う。武士たちは日本の各島々で島民を殺され、人として容赦するものはい無く、恩賞を得る絶好の機会でもあった。元軍の敗残兵は鎧武者を道ずれに海に落ちる者、刺し違える者、死に物狂いの状況で戦ったとされる。鷹島の掃討作戦は三日間において行われ七月七日には終了した。元軍千余名が降伏したが、この戦いで降伏は無かった。博多の那珂川(なかがわ)でモンゴル人、高麗人官人は皆殺しにされ、南宋人は古くから交易を行っていたため、命は助けられたがそれでも奴隷にされている。 

 

 暴風雨で水手を失い被害を受けた元軍の船に追撃戦も行われ、『蒙古襲来絵詞』の竹崎季長も参戦している。筑後の木小屋(現福岡県黒木町)地頭香西度景(大友氏と同族:こうさいのりかげ)は、閏七月五日、肥前御厨子崎(現長崎県松浦市御厨町)の沖で元軍の船、三艘を発見して大船に乗り移り分捕り合戦を行った。弟広度は海に落とされ、親類・悲観派・郎従は討死に、あるいは手負いを被っている。また、肥前御家人の黒尾社大宮司藤原資門は千崎で敵船に乗り移り負傷しながらも敵兵一人をも生け捕り、もう一人の首を分捕った(『鎌倉遺文』二十・一五一五号、二十五・一九一三〇号)。しかし、弘安の役後も日本国内、幕府及び御家人は、何時、元の再征が行われるか戦線恐慌とした日を送らなければならなくなった。それは鎌倉幕府が倒れ南北朝期まで続く事になる。 ―続く