鎌倉散策 三十三、三浦氏と和田合戦 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

東国武士 三浦一族 三十三

 建保元年(1213)四月十五日、和田朝盛は、実朝の寵愛を受けていたが、この日、和田一族は御所に出仕しなかった。朝盛も朝夕の奉仕を止め、蟄居した。その間に浄遍僧都と会い、出難生死の道を学び読経と念仏を務めていた。その日ついに出家を遂げようと、長年の名残を思って御所に参上する。実朝は名月に向かい、和歌の御会を行っており、朝盛は実朝に和歌を献上し、その優れた和歌に何度も感心された。朝盛は、このところ祇候していなかった事情を伝え、実朝は主従共に心中のわだかまりを解き、喜びの余り数か所の地頭職を一紙にまとめ記し、直接朝盛に下し文を与えた。月が中天に及んだ頃、朝盛は退出し、帰宅せず浄蓮房源延の草庵に行き、髪を剃り、実阿弥陀仏と号し、そのまま京都に向け旅だった。同十六日、この事を知った父常盛と祖父義盛は朝盛の残した書状を見て、義直に追って連れ帰って来るよう指示する。朝盛は、まれなほど優れた武士で、軍勢の棟梁になるべき者で有った為、義盛が惜しんだためと言われた。また、朝盛が出家したことにより逆反がわかってしまう事を恐れたともいわれる。書状の内容は「叛逆の企ては、今となっては、きっとこのままではすまないでしょう。しかしながら一族に従って主君に弓を引き申し上げることはできません。また主君の下に参じて祖父に敵対することもできません。そのため出家して、自他の苦しみや患いから逃れるしかありません。」と記されていた。(引用:『現代語訳吾妻鏡』五味文彦・本郷和人編)

  

 五月二日、義直は朝盛を連れて戻り、和田義盛は逆心を抑えがたく、決起する。『吾妻鏡』では北条泰時が五月三日の条で「去る一日の夜、酒宴があり翌二日の暁天(明け方)に義盛が襲ってきたとき…」とあるが、二日の条では「申の刻(夕方四時)に和田義盛が一味を率い、御所を急襲した」と記載されている。義時は義村から和田義盛の逆反の密告を二日早朝に受け「義盛がすでに挙兵したと申した」と記載されている。和田義盛は五月三日暁寅の刻(午前四時)幕府南問を襲い三浦義盛は「挙兵と同時に幕府北門を襲う」と襲撃箇所を決め起請文に書いた。そこで幕府内御所にいる尼御台所(政子)と御台所(実朝)を北門より鶴岡別当(定暁)の某に移しており、申の刻(夕方四時)に和田義盛が一味を率い、御所を急襲したとされている。しかし、夕方四時と言う時間帯が通常戦略的にはほとんど用いない時間帯で、常識的には夜討ち、朝駆けが基本である。本来義盛は三日暁寅の刻(午前四時)と決めており、これは北条方が準備を整え、先に奇襲をかけたのではないかと考える。そこには北条義時が三浦義村の再度の裏切りが気になっていたのではないかと考え、戦を速める事で、確実に自軍に取り込むことを考えたのではないだろうか。義時は政治的戦略家であり、軍事的戦術家ではない。この和田合戦においても子息泰時、朝時、足利勢が壮絶に戦っている。本来義時という男は権力が無ければ魅力のない小心な男と考える。後の承久の乱では北条政子に助けられ、小心な一面を大江広元に告げている。

 

 戦況を『吾妻鏡』にたどれば義盛は御所を百五十の手勢を三手に分け御所を急襲。御所内では北条泰時、朝時、足利義氏らは防戦して軍略を尽くした。和田常盛の弟朝夷名義秀は総門を破り南廷で立てこもる御家人らを攻め立て、御所に火を放った。実朝は義時と広元に御供され頼朝の法華堂に避難し、この間、御所内の燃え上がる炎の中で激烈な戦闘が続いた。義秀は特に猛威を振るい、力を示すことは、まるで神のようであり、五十嵐小豊次、葛貫盛重、新野景直、礼羽蓮乗以下数名が討ち取られた。高井重茂(和田義茂の子で義盛の甥)が義秀と戦い、たがいに弓を捨て、馬首を並べ雌雄を決した。両者が馬から落ち、組合、ついに重茂は討たれたが、義秀を馬から取り落したのは重茂だけであり、一族の謀叛に従わず忠臣を示し、命を落としたことに誰もが感嘆したと言う。北条朝時も太刀を取り義秀と戦ったが、傷を負い、また、義秀が足利義氏と出会い鎧の袖口をつかみ、双方馬を走らせ、袖が切れてしまうほどの力であったと言われる。。しかし、合戦が長引き馬の疲弊も極地に達し、鷹司冠者(藤原朝季)が割って入り、討たれたが義氏は走り逃れた。

 

 日が暮れても戦は続き、義盛はようやく兵が力尽き矢もなくなり由比浦の浜に退却した。泰時は旗を揚げ、軍勢を率い中の下馬橋で陣を固めた、足利義氏、八田知尚、波多野経朝、潮田実季は勝に乗じて凶徒を攻め立てた。翌三日、小雨が降り、兵馬とも疲弊し兵糧も立たれ腰越に向かい、そこで進軍して来た横山時兼と出会い義盛の陣に加わりる。ここで義盛の三日暁申の刻挙兵が真実であった事が窺える。軍兵三千騎ほどで再び新手に立ち向かった。この頃稲村ケ崎周辺に相模・伊豆の御家人たちが集まり、どちらが優勢なのか見て、どちらに就くか判断していた。波多野朝貞が実朝の御教書(みきょうじょ)を見せ将軍の味方につけた。義盛は再び御所を襲う為に大軍を浜に向かわせたが若宮大路や各町大路に陣で固められており、将軍を援護する御家人たちが加わり、突破するすべもなく、由比浦と若宮大路で合戦となった。昨夕からこの昼まで休みなく戦が続き兵士たちは力の限り尽くしたと言う。義清、保忠、義秀の三騎は轡(くつわ)を並べ四方の敵を攻めた。しかし夕刻になり、和田義直(三十七歳)が井具馬盛重に討たれ、父義盛(六十七歳)は非常に嘆き悲しみ、ついに大江能範の所従に討たれた。また息子の義茂(三十四歳)、よしのぶ(二十八歳)、秀盛十五(十五歳)以下張本七人も共に誅殺された。朝夷名義秀は船を出し安房国に赴いた。それぞれの大将も四散し逃走し勝敗は決した。

 

 当初、義盛に与することを承諾し、御所北門を固める同心の起請文を書いていたが、合戦直前に三浦義村と弟胤義は「先祖から八幡(源義家)に仕え、恩祿を受け、肉親の勧めに従い累代の主君を射るならば天罰は免れないであろう」と後悔し、北条義時邸に参上して義盛が挙兵したことを告げた。義時は驚きもせず心静かに目算を加えた後、その座を立ったと言う。もし、三浦義村が裏切らず、北門を攻め実朝の身を抑えたならば圧倒的なに勝利しただろう。義盛はここで頼朝挙兵から三浦一族として忠臣を重ねてきたが、今それが北条氏の権力を掌握する道具として使われてきたことを自覚する。しかし、三浦義村は気付けなかったのか。それとも決断できなかったのか。北条打倒を考えれば。三浦一族の結集は大きな原動力となっただろう。そして、北条との決戦は今回が最良でなかったのか。そして弟胤義はこの密告を悔やみ承久の乱において兄義村とたもとを分け、兄弟で死闘を行った。義村の選択は三浦一族にとって大きな損失を許してしまった。

 藤原定家は『明月記』喜禄元年(1225)十一月十九日条で義村を「八難六奇の謀略、ふかしぎのものか」と評している。『古今著聞集』には将軍御所、侍の間の守座を占めていた義村のさらに上座に、下総の豪族千葉胤綱が着座し、義村が不快に思い「下総の犬は寝場所を知らぬな」と言うと、胤綱は「三浦の犬は友を食らうぞ」と切り返し、和田合戦での義村の裏切りを批判した逸話が記されている。和田義盛を失った三浦一族の兵力は単純に半分になり、ここでも義村は北条義時に利用されている事には気が付かず、後に義村の嫡男泰村の代になると五代執権北条頼家による宝治合戦で三浦氏は一族滅亡となる。 ―続く