(写真:三浦市初芦町和田:和田城跡、天王様八雲神社)
東国武士 三浦一族 三十二
元久二年(1205)六月、畠山重忠は時政、牧御方の讒言により企てられ、追討された。元久二年(1205)閏七月 牧氏事件において北条時政は鎌倉追放後、北条義時が二代執権となり、北条政子の後援のもとで執権体制を固めて行く。これらの経緯を見て政子、義時が利を得て、時政が損をして、伊豆に追放され、その後歴史から消えていった。三代将軍源実朝は『古今和歌集』を京から運ばせ和歌の才能も開花させていく。建永元年(1206)二月二十二日、十四位以下に叙され、十月二十日には頼家の子息善哉(後の公暁)を政子の命により実朝の猶子(ゆうし)として初めて御所内に入った。善哉の乳母夫は三浦義村で賜物等を献上された。
承元元年(1207)正月五日、実朝が従四位以上に叙され、二月には北条時房が武蔵守に任じられ、平穏な日が続いていた。幕府の政務は 各地からの訴状などが多く、裁定されていたが、武士たちは大きな戦もなく気の緩みも生じていた。承元二年(1208)二月十日、実朝が疱瘡(天然痘)になり大変苦しんだとされ、当時は致死率の高い病であった。二十九日には回復したとされる。その後、疱瘡は瘢痕が残るため、それを恥じて、三年ほど鶴岡八幡宮の参拝を止めている。十二月九日、正四位下に叙される。承元三年(1209)四月十日十三位に叙される。藤原定家に和歌三十種首の評を請うている。同十一月十四日、北条義時が、(皆伊豆国の住人で、主達と号した)年来の郎従の中で手柄のあった者を侍に準じると命じられるように望み、内々で審議が行われたが実朝は許さなかった。「そのことを許せば、その者たちが子孫の代になり以前の由緒を忘れ、誤って幕府へ直参(主君に直接仕える)を企てる。後の災を招く基であり、許してはならない」と激しく命じたとされる。
承元三年五月十二日、和田義盛は上総国国司に推挙されるよう幕府に願い出た。頼朝在命時には御家人において御門葉、准門葉と一般の御家人に分けられており、三段階の秩序をもって構成されていた御門葉は清和源氏の血統を有す武士で頼朝から朝廷に国司任用が推挙される武士であり、幕閣において頼朝から同族の待遇を受け「源」を名乗ることが許された家格で伊豆守山名義範、相模守大内惟義、上総介足利義兼、信濃守小笠原遠光、越後守安田義資、三河守源頼則、伊予守源義経である。准門葉は清和源氏以外から頼朝が推挙し国司を推挙されたもので、豊後国守毛呂季光、因幡守大江元広、下河辺行平、結城朝光である。しかし、幕府での要職に就任することは少なく、名誉的なものであった。一般御家人から本来要望することは禁令で出来なかったが、頼朝死後の正治二年四月に北条時政が遠江守に就任、元久元年三月、北条義時が相模守、承元元年北条時房が武蔵守に就任している。この義盛の要望は北条側から見れば挑戦状の様な物であり、また義盛もそうだったかもしれない。しかし私は、義盛は頼朝に東国平定前に侍所別当を所望した時と同じ様だと思う。そして同十一月二十七日、幕府から「上総国司の所望、内々に計らいがあり、吉左右待つべし」と沙汰があり、義盛は手を打って喜んだという。しかし、承元五年(1211)十二月に業を煮やした義盛は国司任官の申請を取り下げ、願書返却を願い出た。
建暦元年(1211)正月、実朝、正三位に叙され、美作権守を兼ねる。六月二日、実朝が急に病気となり、大変重い様子であった為、戌の刻に御所の南庭で属星祭(ぞくしょうさい)が行われ、安倍泰貞が奉行する。同三日、実朝は病気について夢のお告げがあり、霊験があったと言い、回復した。八月には中原広元病悩に苦しみ様々な祈祷が行われている。八月二十七日、実朝は疱瘡を患ってから初めて鶴岡八幡宮に参った。九月十五日、猶子に迎えていた善哉は出家して公暁と号し二十二日に授戒を受けるため上洛した。 建暦二年(1212)十二月、実朝、従二位に叙される。
建保元年(1213)二月十五日、信濃の住人青栗七郎の弟、阿静房安念法師を千葉之介成胤が生け捕り、評議の結果二階堂行村に叛逆の実否を問い糺すように命じられた。安念法師の白状により、謀叛の者が諸所で捕縛され、二百名に及んだとされる。事の内容は信濃国住人の泉小次郎親平が一昨年より、捕縛された諸者に対し、尾張中務丞が養育している故二代将軍頼家の子息栄実(公暁とは異母弟)を大将軍として北条義時を討つ企てであった。捕縛された中に侍所和田義盛の息子義直と義重がいた。この件に対し、北条義時は自身の批判が集約された結果であることで徹底的に賊徒を抹殺しなければならない状況に陥ったが、将軍実朝は寛容に裁定を下した。
(写真:三浦海岸、小田和湾)
二十六日、因人渋河兼守に明日、明け方に誅殺が命じられ、無実の罪に悲しみ思う十首の和歌を荏柄社に奉納した。工藤祐高が奉納された和歌を御所の実朝に持参し、それを読んだ実朝は感心し、兼守の罪をその場で赦された。兼守は天神の加護にあずかり、また将軍の恩志を蒙った。同日、実朝は正二位に叙されている。謀反人の多くは配流とされたが、泉小次郎親平は一度、見つけられたが逐電し、その後、発見される事は無かった。和田義盛は上総国の井北翔におり、この件に対しては全く身に覚えはなく、慌てて鎌倉に戻っている。
三月八日、和田義盛は御所に参上し実朝と対面した。孫と爺の関係の如く、実朝は義盛の度重なる勲功に免じ義直と義重の罪を赦された。同九日、和田義盛は木蘭地の水干と葛袴を着た姿で再び一族九十八人を引き連れ御所に参り、甥の胤長の赦免を請いに来た。義時は自身を討とうとする者に裁定を厳しく取り、胤長は今回の首謀者であり、特に策謀を廻らしていたため、赦免されない事の実朝の意向を北条義時が伝え、二階堂行村にその場で引き渡した。その姿は胤長を後ろ手に縛り、一族の列座する前で行われた。和田義盛の逆心はここで決まったと言われる。今まで頼朝に忠節を示し、行ってきたことは、頼朝死後、全て北条に加担し権力を掌握させた事を義盛は知った。
胤長の荏柄社の前の屋敷は没収されることになった。この当時の武士社会においては、罪科が有った御家人の収公された所領は同族に返付されるというのが慣例となっており、義盛は実朝に嘆願し、許され代官を置いた。しかし義時は、それを覆し和泉親平の乱の平定に功績があった金窪行親に屋敷を拝領させた。この胤長の屋敷は大倉御所と隠れ道際の義時邸との中間に位置し幕府との連絡網を繋ぐ戦略的重要地であった。 ―続く