鎌倉散策 龍宝寺(りゅうほうじ) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 龍宝寺は鎌倉市にある曹洞宗寺院の中で一番古い代表的な寺院である。それでも寺伝によると玉縄城城主の北条綱成(つなしげ)が安土桃山時代末期の文亀三年(1503)に建立した瑞光院が始まりとされる寺院である。開山は泰絮宗栄(たいじょそうえい)禅師と伝えられている。天正三年(1575)に綱成の孫玉縄城城主北条氏勝によって現在地に移された。龍宝寺の名は氏勝の父の玉縄城三代城主氏繁の戒名「龍宝寺殿大応栄公大居士」から取られ山号寺号が陽谷山龍宝寺とされ、玉縄北条氏の菩提寺として繁栄した。

 

宗派:曹洞宗。山号寺号:陽谷山龍宝寺。創建:文亀三年(1503)。開山:泰絮宗栄禅師。開基:北条綱成。本尊:宝冠釈迦如来。寺宝:木造宝冠釈迦如来坐像他。

 本堂の宝冠釈迦如来像と脇侍の文殊菩薩・普賢菩薩が祀られ、歴代玉縄城主と源実朝の位牌が安置されている。創建当初は広大な寺領を持ったとされるが、天正十八年(1590)に豊臣秀吉による小田原征伐が始まり、玉縄城包囲戦況が悪化、この戦いに参戦していた徳川家康が玉縄城包囲したが当時の龍宝寺住職を通じて氏勝を説得させ開城したと言う。後に氏勝は家康の家臣として仕え下総国岩富藩一万石の大名となっている。また、伝承としてこの場所は鎌倉時代、鎌倉幕府三代将軍源実朝を暗殺した公暁の七人の部下が実朝の首を隠した場所とも言われている。

 

 境内には馬頭観音碑、庚申塔が参道脇に置かれ、子育て地蔵堂、福徳稲荷堂が建てられている。玉縄北条氏供養塔があり、龍宝寺住職四世良順大和尚により元和元年間から寛永五年ごろに建てられたとされ、近隣の栄光学園の敷地内にあったが造成工事に伴い龍宝寺境内に移築された。この供養塔は旧地に立っていた頃いつも等が倒れており、誰かが直してもすぐに倒れているので土地の人は「ぶっつけ仏」と呼んでいた。江戸時代の儒学者の新井白石の碑も建てられており、新井白石は当時天領だった植木から家禄を得て城廻を治めていた。また当時朝鮮からの施設を藤沢まで出迎え、龍宝寺を宿舎として使われた。他に境内に玉縄民俗資料館があり、玉縄城関係資料、縄文時代の遺物、郷土資料、民具および農具が展示され国指定重要文化財古民家の旧石井家住宅が残されている。

 

 明治六年(1873)に学制がしかれ貞宗寺が当時寺子屋から玉縄学校とされ、四年後の明治十年(1877)には、龍宝寺に移され五十年間寺院は学校として使用されており、現在の玉縄小学校である。浄泉寺の腰越小学校が最も古く、等覚寺の深沢小学校と同年に玉縄小学校が開校された。

 

 茅葺の山門をくぐり本殿に通じる長い参道の石畳の両脇には樹木が多く、広い境内には四季折々に咲く花が植えられ菖蒲、牡丹、シャクヤクや紫陽花が植えられていると言う。龍宝寺を訪ねた六月の初旬は菖蒲が咲き、紫陽花も咲きだし、季節ごとに訪れたい寺院であった。

 

龍宝寺(りゅうほうじ)鎌倉市植木129 ☏0467(46)2807 拝観時間朝から日没 拝観無料大船西口バス停から関谷インター行き、藤沢北口行きバス植木谷戸下車。