鎌倉散策 等覚寺(とうかくじ) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 等覚寺の山号寺号は休場山弥勒院等覚寺であり、山号の「休場山」は梶原の景時が休んだ地と伝わる。寺伝によると応永年間(1394~1428)で室町期に入り南北朝が合一した時期で、:秀恵僧都(しゅうえそうず)による創建とされる。もとは青蓮寺の末寺であった。現在は高野山寳壽院(ほうじゅいん)の末寺である。

 宗派:高野山真言宗。山号寺号:休場山弥勒院等覚寺。創建:応永年間(1394~1428)。開山:秀恵僧都。本尊:不動明王。寺宝:本尊木造不動明王、木造虚空菩薩立像、出世子育て地蔵等。

 

 等覚寺は茅葺の薬医門が構えられ、門をくぐると正面に本堂があり、右目が大きく開いく天地眼の形相で、煩悩に迷う人々を屈服させてでも救おうとする如来の化身である本尊不動明王が安置されている。本堂は珍しく、軒下に木鼻と屋根に唐獅子の飾り瓦がある。境内右手には薬師堂があり相模国順四国霊場八十八ヶ所第二十一番札所とされ、境内に文政三年(1820)銘の阿州大龍寺の写しの大師様像がある。また脇堂には「出世子育て地蔵尊」が安置され、参詣すれば子が授かり、子がある人は子が出世すると言われ、江戸時代からご利益が高く近在の人々は欠かさず参拝されたと言う。現在は妊婦や子供が授かりたい夫婦が全国から参詣され、また、銅製のみ水子地蔵も建てられている。

 

境内右奥に入ると元弘三年(1333)新田義貞の軍が鎌倉攻めを行った際、赤橋守時の軍が激戦を繰り返し敗れた守時の軍勢九十人以上が自答したと言う、洲崎古戦場から出土した戦死者の供養塔がある。

 

 この一帯は鎌倉時代、梶原の景時の所領であったと言い。深沢小学校の裏庭の東側崖にやぐらが存在し五輪塔が四基並んでいると言う。これらが梶原景時・景季、景高、景茂の墓ではなかろうかと考えられているが供養塔の刻まれた文字は判読できない。

鎌倉市史社寺編によると御霊神社と境を接していたと伝わる。また江戸期には一時彦根候、井伊掃部頭の領地で(弘化四年~安政元年「相模国鎌倉郡村史」より)寺院にある「山門復興時の棟札」に願主井伊直弼(なおすけ)掃部頭の文字が残されている。

 

 明治六年(1873)には境内に「訓蒙学舎」と名付けられた学校が建てられ、明治八年に梶原学校明治十年には二階建て学舎が完成している。これが現在の深沢小学校の前身である。鎌倉市の小学校の中で明治五年(1872)、腰越の浄泉寺の発蒙学舎に次いで古い。明治六年、同年に玉縄の貞宗寺の寺子屋が玉縄小学校となっている。また、明治八年に小袋谷学校が成福寺にて開校されている。

 晴れた五月の末日、梶原、寺分を散策する。御霊神社、東光寺、駒形神社、大慶寺、等覚寺は鎌倉の歴史を知る上で平安末期から江戸時代までを語ってくれた。

等覚寺(とうかくじ) 鎌倉市梶原1-9-2 ☏0467(46)7464 拝観時間特に無し 拝観料無料