鎌倉散策 宝善院(ほうぜんいん) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 宝善院は白山信仰の開祖、泰澄(たいちょう:682-767)上人により開山されたと伝えられており、泰澄上人は役行者と並ぶ奈良時代の山岳信仰の修行僧であった。天平九年(737)に疱瘡(天然痘)が流行り、終息させた功により称徳天皇より正一位大僧正位を賜ったと伝えられる。生地の福井県である越前および越中、越後の越の国の大徳と呼ばれ、他に並ぶ者が無い徳の高い僧と言う意味である。鎌倉市内では杉本寺の天平六年(734)、長谷寺天平八年(736)に続く歴史を持つ寺院である。

 

 泰澄上人が信仰していた十一面観音がこの地に祀られたのが寺院の始まりとされる。手広の青蓮寺は開山が弘法大師で弘仁元年(819)も古い歴史を持つ寺院であり、現在でも一月二十一日と四月第三土曜日の大祭に行われている鎖大師法要の際、昔は片瀬、腰越の信者たちは宝善寺の前を通ることが本道とされ、わざわざ遠回りをして、御詠歌を唱えながら通る姿が見られたと言う。

宝善院は山号寺号を二つ持つ寺院である。泰澄山瑠璃光寺(宝善院)・加持山霊山寺(宝善院)。

 

宗派:真言宗大覚寺派。山号寺号:泰澄山瑠璃光寺(宝善院)・加持山霊山寺(宝善院)。創建:天平神護年間(765~767)。開山:泰澄大師(伝)。本尊:薬師如来。寺宝:木造薬師如来立像、木造十一面観音座像。

 江戸時代には、宝善院の僧が龍口明神の別当を命ぜられた事から村の御嶽権現社、春日社、第六天社、観音堂など管理業務を行い村人の信仰を集め栄えた寺院であったとされる。明治の神仏分離令により、密やかな寺院に戻ったと言われる。

 

 江ノ電腰越の駅から腰越の町の中を歩き腰越小学校を目指す。所々に宝善院の道標があり、五分ほどで宝善院の石塔にたどり着く。奥に山門が見え、近づくと山門横に地蔵尊が祀られている。山門は四本支柱の薬医門で山号の加持山の額が掛けられ、境内には本堂と小さな太子堂があり、石造のお大師さんが祀られている。安永五年(1776)銘の撞鐘があったが、太平洋戦争で供出された。その後だろうか小さな庭が整備されていた。

 

 脇本尊の十一面観音像のお顔は、ふくよかなお顔をされ優しい表情をお持ちであり、泰澄上人が作られたと伝承されている。宗教施設なので、お願いすると、お参りとしては取り計って頂ける。優しい人柄の御住職さんであった。

写経教室も行われ、比較的他寺院より安価で体験できる。以前二年前まで三、四年写経をしていた。しかし病気が進行して筆を持つことが少し困難になり、今は遠ざかっている。もう、だいぶ下手になっただろ。一般的には書かれた般若心経を下に敷き、なぞるが、書かれた見本を見ながら書く臨書で写経をすると小一時間無心で書く。この時間は何故か煩悩が無くなった気分になり、時間を楽しむことが出来る。ふと、また書いてみようかと思った。

 

宝善院(ほうぜんいん) 鎌倉市腰越5-13-17 ☏0467(31)8010 拝観時間特に無し 拝観無料