龍口寺は江ノ島電鉄の江の島駅、またはモノレールの湘南江の島駅の約百メートル東に位置し、鎌倉市ではなく、藤沢市にある寺院である。ちょうど両市の境目に位置し、江ノ電の線路が軌道敷上の道路に入り急カーブのする位置に山門がある。腰越の駅まで約四百メートルの距離を車と行き来し、門前から見る江ノ電車両の写真を撮る場所としても有名である。龍口寺は日蓮宗の腰越の瀧口寺輪番八ヵ寺と言う関係上、記載させて頂く。龍口寺の輪番制は明治十九年まで特定の住持を置かず、子院の腰越の輪番八ヵ寺で住持を務めた。その八ヵ寺は勧行寺、東漸寺、法源寺、本成寺、本龍寺、妙典寺、常立寺(藤沢市)、本蓮寺(藤沢市)である。
山号寺号は寂光山瀧口寺(じゃくこうさんりゅうこうじ:たつのくちでらとも言われる)。宗派は日蓮宗本山(霊跡寺院)。本尊は日蓮聖人像、曼荼羅。創建は建武四年(1337)。開基は日法。寺宝は持国天像、毘沙門天像、六老僧、龍口刑場敷皮石等。
この瀧口は鎌倉時代において刑場の地とされていた。日蓮上人が龍ノ口法難にあったことで有名である。この当時の鎌倉は、疫病、地震、災害、不作の為の飢餓等が続き民は貧窮していた。日蓮は文応元年(1260)『立正安国論』を幕府に奏上し、法華経の帰依により国家の安寧と民の救済を求めた。為政者を含め多くの人々が正法に違背して悪法に帰依しているところにあり、法華経に帰依しなければ災害、外敵の侵略により国家が滅ぶことを訴えたが、その手段において「念仏無間天魔真言亡国律国賊(四箇の格言)」が唱え、他宗の排斥をしたため念仏衆(浄土宗徒)により松葉ヶ谷草庵を放火される松葉ヶ谷法難に遭う。その後、文永五年(1268)蒙古国書の到来で外国侵略を予想し
たことにより『立正安国論』の正統性を主張する。
その当時の中国の情勢を解説すると、中国の北宋が金により崩壊し、貞永三年(1234)金はモンゴル(元)と南宋軍により滅亡に追い込まれ、南宋軍はその後北上したため、モンゴル軍との違約により嘉禎元年(1235)戦闘に入る。建治二年(1276)にモンゴル軍に臨安を占領され、事実上滅亡した。がその後、敗残した皇族、官僚、軍人は南に追われ建治(1279)広州湾の崖山で元軍に撃滅され、宋は完全に滅んだ。日本では当時も南宋との交易も行われており、栄西・道元をはじめとする多くの日本人の僧が留学していた。留学僧により中国情勢の情報も持ち帰られたと思われる。臨済宗が鎌倉に根づき、寛元四年(1246)に中国の西蜀出身で建長寺開山の蘭渓道隆が来日している。日蓮も京都比叡山延暦寺に遊学しており、中国情勢は知りえた情報だと考える。予言と言うよりも情報分析、可能性の問題であると私は考える。
本題に戻り、幕府は日蓮を危険集団ととらえ弾圧を始めた侍所司所(刑事裁判を管轄)の平左衛門頼綱により捕縛され評議が行われたが、日蓮は頼綱に対し、自身を迫害するならば内乱と外敵からの侵略は不可避と主張、陳暁した。頼綱は馬上による鎌倉引き回し後、佐渡への配流を下した。幕府内においても処刑に対し異議を唱える者も多く、内々で斬首することが決められ、夜半滝の口の刑場へ連行された。形の執行される時、江の島方面から執行する武士の目に強烈な光が飛び込んだ。人は驚き、刑の執行は中止された、幕府内部で再度評議された結果佐渡への配流がなされた。これが龍ノ口の法難と言われる。また、執権北条時宗の妻が妊娠中であった為、恩赦的なものがあったとされる。
建武四年(1337)に日蓮の直弟子の日法が、この地に龍ノ口法難で処刑時に日蓮が座ったとされる敷皮石を運び敷皮堂を建立し、自身で作った祖師像を安置したのが始まりとされる。仁王門から階段を上がり龍口刑場跡が残されている。山門をくぐると左に龍口寂光院、中央に本堂(敷皮堂)右に延寿の鐘があり、お題目(南無明法蓮華供)をお唱えして一回、鐘を撞くことが出来る。また神奈川県で唯一のケヤキ造りの五重塔、仏舎利塔、霊窟、七面堂がある。五重塔、仏舎利塔どちらの方からでも一周し拝観することが出来る。冬場の棲み切った空気の中で仏舎利塔から見る富士山は雄大である。
毎月十二日、信仰会(於、本堂)。十九日、七面天月例祭(於、七面堂)。妙見尊月例祭(於、妙見堂)。また、写経会も行われている。九月十二日、「浅敷の尼」が刑場に引かれる日蓮にぼた餅を与えたことにまつわり「難除け牡丹餅」が行われる。平日の人少ない境内に台湾リスが多く木々の枝を伝いわたっていた。
龍口寺(りゅうこうじ)
藤沢市片瀬3-13-37 ☏0466(22)7357 9時~6時 境内参拝自由