鎌倉散策 腰越(こしごえ) | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 鎌倉市は鎌倉地域、腰越地域、深沢地域、大船地域、玉縄地域の五つに別れて行政等が行われている。古都鎌倉は切通内の鎌倉地域で、私の住居は山崎で、深沢地域となる。腰越は万福寺の源義経の腰越状で有名であり、満福寺、本成院、浄泉寺、妙典寺、勧行寺、東泉寺、本龍寺、本行寺、宝善寺、法源寺、霊光院(七里ヶ浜)等の寺院が腰越駅周辺にある。社殿は小動神社、龍口明神社がある。藤沢市との境目にはこの周辺では珍しく五重塔を持つ瀧口寺がある。

 

 面積は鎌倉市39.53平方キロメートルで腰越地域4.21平方キロメートル(鎌倉市の11%)である。人口26000人(鎌倉市の14.29%)高齢化率平成二十三年一月一日31.44%で鎌倉市の中でも高齢化が進んだ地域になっている。地域行事として腰越地区には小動神社と龍口明神社を中心に祭礼が多く行われ、七月には小動神社「天王祭」、十月には瀧口明神社「例大祭」が行われ、多くの人で賑わう。また腰越地区には十四団体の自治会・町内会があり、八月にはその自治会・町内会主催の祭りが開催される。津に昔から伝わる「餅つき唱保存会」を後世に伝える活動をされている。

 
 腰越の名の由来は四つほどあり、腰越の地形は北に小山が連なり南は海に向かって肥えた土地が広がる。人々は肥えた土地を求め、山の腰(山の尾根)を超え移って来た。山の腰を超える事から「腰越」となったと言われる。伝説としては古代、深沢地域には周り四十里もあると言う大きな湖があり、五頭竜(ごずりゅう)と言う五つの頭を持つ竜が、津村(現在の腰越・津、龍口明神がある地名)の長者に五頭竜が現れ十六人の子供を食べてしまった。人々は泣く泣く他の土地へ越してきて、「子」「死」「超える」から「子死越(こしごえ)」「子死恋(こしこい)」になり「腰越」になったと伝えられてもいる。五頭竜の難を逃れるために、人々が浅瀬の海を腰まで水につかり移り来た為、「腰越」とも伝えられたとも言われ、深沢が鎌倉と横浜の境にあったとされる説もある。また、腰越の海は昔、浅瀬で干潮の時は渡ることが出来、背に荷物を背負って超すことが出来たため、「背負越場(せおいこしば)」と呼ばれ、背負い越しで超すことから当て字を用い「腰越」となったとも言われる。(鎌倉子供風土記参照)