鎌倉散策 海棠の寺 妙本寺 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 
 

 四月十一日土曜日、所用で鎌倉市中に散歩がてらに来て、西口、東口の人の少なさに驚いた。前回のブログで配信した鎌倉駅周辺は十二時十五分ほどで、鎌倉に来られた人は、その人の少なさに驚かれたと思う。平日でさえ、いくら待ってもこの写真は撮れないと思う。バスに乗ろうとしたが大船行バスは、昨年まで一時間に四本のバスがあったが、今年になり三本に減った。ちょうどバスが出てニ十分ほど待たなければならない。次次発のバスに乗れば、それまで四十分あるので、妙本寺の海棠はどうなっているか見てみたくなり、人が少ない妙本寺に向かった。

  

 大巧寺に入り、植えられている花を眺めながら出て滑川の橋を渡り妙本寺の参道に入る。長興山妙本寺の宗派は日蓮宗で、開山は日蓮、開基は比企大学三郎熊本であり、創建は文応元年(1260)である(詳細は平成三十一年七月二日の「鎌倉散策 妙本寺」で記載している)。大きな杉林に比企ヶ谷があり、「杉の寺」として有名であり、一つ通りを離れるだけで静寂間が漂う私の大好きな寺院である。昨年の台風十五号により、杉林の大木が何本も倒れ無残な災害の跡を残したが、今はかなり整備され、元に戻りつつあるが、倒れた木により参道に明るさが見られ、以前とは少し違う雰囲気になったが、気持ちの良い美しい寺院である。

 

 源頼朝の乳母が比企禅尼は蔵の国、比企郡の豪族の比企達宗の妻で頼朝が保元の乱後、伊豆に流され、生活に必要な物資を送り続けたのが比企禅尼である。それを届けていたのが養子の比企能員であり、頼朝挙兵時から臣下として従った。後、能員は、二代将軍頼家の子一幡の外祖父として幕政に貢献した。建仁二年(1203)二代将軍頼家が重病に陥ると、その遺領分与について北条時政と争い、「比企の乱」が起こる。能員は時政邸で暗殺され、比企の屋敷に火をかけられ、比企一族の者と幼い一幡(六歳)、は自刃した。この妙本寺は北条時政に攻め滅ぼされた比企能員の屋敷跡でであった(詳細は令和二年三月二十七日の「鎌倉散策『鎌倉殿と十三人』十三、比企の乱と頼家追放」に記載している)。一族滅亡後も儒官として幕府に支えていた能員の末子、比企大学三郎熊本が、後に日蓮宗に帰依し、文応元年(1260)、日蓮(日郎とも)を開山として創建されたという。長興山妙本寺の名の長興は能員の法号、妙本は室の法号にちなむ。この寺院には比企家の墓、一幡の袖塚、若狭の局の蛇苦止堂(詳細は平成三十一年九月二日「鎌倉散策 蛇苦止明神(妙本寺)例大祭」にて記載)の遺跡が悲しい話を物語せる。


  

こちらは八重桜と思います。

 真直ぐに参道に進むと鎌倉で最大級の木造建築物である祖師堂が立ち、その左側に咲くのが海棠であるが、やはり一週間遅かった。今年は急に暖かくなったり、寒くなったり、また雨も多かったせい散るのも早かったのかもしれない。しかし、所々に残った花びらを見せてくれていた。四月に入って一週間ぐらいが見ごろだろう。来年は咲く時期がわかったので、今から来年の事を云うのは鬼も笑うが、満開に咲く海棠を見てみたい。