鎌倉散策『鎌倉殿と十三人』十五、北条時政 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 北条時政は保延四年四年(1138)に伊豆で生まれる。北条氏は桓武平氏高望流の平直方の子孫として称し、伊豆国田方郡北条を拠点とした在地豪族であり、さほど大きな勢力ではなかった。時政以前の系図はすべて異なるため桓武平氏の流れであることを否定視する説もあるが、祖父北条時家、父時方と言う系図ではほぼ一致している。『尊卑分脈』(日本初期の系図集)では土岐家が「伊豆の介」とある。平治の乱で捕らえられ、伊豆に配流になった源頼朝の監視役に当初は工藤祐継の預かりとなるが、祐継死後、伊東祐親とともに命ぜられる。それ以前の北条家に対する記述は一切ない。源頼朝は配流中、仏神に身を置き、経を唱える日々を過ごしていたが、後に頼朝は時政の娘の政子と恋仲になり、まだ平氏の実権が大きく当初反対していたが、婚姻を認めた。その以前に頼朝は伊東祐親の娘に子を産ませた。祐親は平家を恐れ、その子を殺し、頼朝まで殺そうとした。伊東祐親は源義朝に仕えていたため平氏を恐れすぎたのかもしれないが、北条時政は桓武平氏を称していた分、楽天的な面もあったのかもしれない。頼朝が監視役両人の娘と接触したのには、何か目的があったように考える。

 

 治承四年(1180)四月二十七日、保元・平治の乱で勝者側について源氏の長老であった源頼政が後白河天皇の皇子、以仁王と結び平氏打倒を促す命旨を出す。計画が早期に露顕し宇治平等院の戦いで敗れ自害する。その後、伊豆の地行国司が平時忠に変わり伊豆国衙の実権は伊東氏が掌握し北条氏、工藤氏は圧迫された。また平時忠の元側近の山木兼隆が伊豆目代となり源頼政の孫の有綱が伊豆にいたため大庭影親が本領に追補のため下向し、伊豆で配流中の頼朝が自身の危機を感じ挙兵した。その後、頼朝は時政と挙兵に伴う策を練る。『吾妻鏡』治承四年八月六日条で「工藤茂光、土肥次郎実平、岡崎四郎吉実、宇佐美三郎助茂、天野藤内遠景、佐々木三郎義綱、加藤景廉他、この時周辺に他武士の内、特に(頼朝の)命に重んじて身命を懸ける覚悟のある勇士を、一人ずつ順番に人気のない部屋へ呼び、合戦の事についてお話になった。そして、「今日まで口にして言わなかったがただお前だけが頼りだから相談している」と、一人ひとり丁寧な言葉をおかけになったので勇士たちは自分だけが頼朝に期待されていると喜びそれぞれが勇さんに戦おうと言う気持ちになった。これは、自分だけがという思い入れを禁じられたものだが、家紋の早々という大事な時期に、彼らが共通の意図を持つためにとお考えになった事であった。しかし真実や重要な密事は時政以外には知らされていなかった。」引用:現代語訳「吾妻鏡」五味文彦・本郷和人編。このことから、この時点で頼朝にとって兵の数では少ないが、最大の後援人であった事に違いない。

 

 挙兵は八月十七日、時政邸が拠点となり伊豆国目代(国司の個人的な職)山木兼隆を襲撃し討ち取った。八月二十日、土井実平の所領相模国土井郷(神奈川県湯河原)に入った。そして、三浦氏と合流をする前に平氏方の大庭景親の三千余騎が立ち塞がり、二十三日に夜戦を仕掛けられ頼朝軍は大敗した。石橋山の戦いである。時政は嫡男の宗時が大庭型に就いた伊東祐親に打ち取られた。頼朝軍は四散し頼朝は真鶴岬から阿波へ脱失した。吾妻鏡では時政は前日別ルートで安房に渡り、現地で頼朝と出会っている。また『延慶本甲斐平家物語』では石橋山の戦いでの敗戦後頼朝とはぐれ甲斐に逃れたと記述がある。後に下総で頼朝と合流し上総国、武蔵国、そして治承四年(1180)十月七日、相模国の鎌倉に入る。東国武士の中でも武蔵国と相模国の武士は非常に強く。その武士団を束ね平氏に相当する軍事力を有する事が出来た。養和元年(1181)閏二月、平清盛が死去する。それに伴い時政の武功に対する記載は『吾妻鏡』は無く、寿永元年(1182)十一月十日条、頼朝の愛妾・亀前を伏見広綱の宅において寵愛していたが、牧御方(時政の後妻)から、この事を聞いた政子は激怒し、牧御方の父・牧宗親に命じ、広綱邸を破壊し、大いに恥辱を与えた。十二日、頼朝は牧宗親に一昨日の事件を尋ねられ鬱念の余り、手ずから宗親の髻(もとどり)を切られ「御台所(政子)の事を重んじるのは大変神妙であるが、その命令に従うとしても、このようなことはどうして内々に報告してこなかったのか、すぐに恥辱を与えると言うのはその考えるところがはなはだ奇怪である」と述べ、宗親は泣いて逃亡した(『吾妻鏡』寿永元年十一月十日条)。十四日、北条時政が舅の宗親を処罰されたことで不満に思い暇乞いを出さずに伊豆に出発した。本来ならば、頼朝の気性を考えれば、事の大きさを考えるが、正子の父として、また時政を後援人としなければならなかった。時政の息子、義時が父に従わず、鎌倉に残ったことが頼朝の精神的な救いになり、その後、義時をかわいがる。『吾妻鏡』の寿永四年(1183)の欠文があり、その後ほとんど時政について記載がない。

文治元年(1185)三月二十四日、壇ノ浦で平氏が滅亡。十月に源義経・行家は頼朝の許可なく後白河院に官位を受ける。頼朝は武士の棟梁として、主従関係を覆す恐れがあり、この事は許せなかった。また、義経の壇ノ浦の功績は目覚ましく、棟梁としての地位を脅かす要因でもあった。そして十月十八日、後白河院は義経に頼朝追討宣旨を下す。十一月二十四日、大江広元の献策に従って頼朝は時政に命を出し、千騎の兵を引きい上洛する。後白河院に頼朝の憤怒を告げて師中納言(そちちゅうなごん)の吉田経房を通じ義経追補の為「守護・地頭の設置(文治の勅許)」軍事・警察権を得る事に成功した。この事で鎌倉幕府の成立と考える事もできる。その後、今日の治安維持、平氏の残党捜索、義経問題、朝廷との折衝などの為に京都守護を任される。文治二年(1186)三月一日、時政は与えられていた七か国地頭を辞任し、惣追補使の地位のみ保持することを院に奏上した。三月末に一族の時貞を残し、京都守護には一条能保が就任し、ほぼ四ヶ月で京を離れた。時政在京中に郡盗を検非違使庁に渡さず即刻処刑するなど強権的な面もあったが、「公平を思い私を忘るるが故なり」(『吾妻鏡』文治二年二月二十四日条)、その施策は「事において賢直、貴賎の美談するところなり」(『吾妻鏡』文治二年二月二十五日条)と概ね好評だった事が『吾妻鏡』に記載されている。その後、時政の『吾妻鏡』の記載は無く奥州合戦の頼朝の御供の名に連ねているのみだった。これらの期間に伊豆の有力者の伊東祐経の死、遠江国の安田義定の反逆の嫌疑により処刑され、伊豆、駿河、遠江の参加国を手中に収め、正治元年(1199)頼朝の死により、十三人の合議制に名を連ね幕府の最有力御家人として『吾妻鏡』に再び現れる。

頼朝死後、頼家が将軍職を継承するが、頼家は従来の幕府の慣例に反して恣意的判断を行ったとされ、頼家の独裁を抑制する為に十三人の合議制を作ったとされる。頼家を中心に政治を遂行しようとした側近の中原広元、中原親能、梶原景時への他の有力御家人の反発もあったとされ、成立の真意は不明である。正治二年(1200)には梶原景時の失脚、安達盛長、三浦義澄の死により合議制は解体された。四月一日、時政は遠江守に任じられ、源氏一門以外の御家人として初めて国司となった。頼家に側室の父で頼家長男の一幡の祖父である比企能員は勢力的を拡大していた。建仁三年(1203)、比企能員の変を企て一族を滅亡させた。元久二年(1205)六月、畠山重忠の乱も牧の方の讒言により、企て、正子、義時との対立を深めて行く。元久二年(1205)閏七月 牧氏事件において鎌倉を追放され伊豆国での隠居を送り政治の表舞台に現れることは無かった。、建保三年(1215)一月六日、腫瘍の為、死去した(享年七十八歳)。墓所は伊豆の国市寺家願成就院である。時政の孫の三代執権泰時は頼朝、正子、義時を幕府の祖廟として事あるごとに参詣したが祖父に当たる時政は牧氏事件等での謀反人として存在を否定され仏事等は一切行われなかった。―続く