鎌倉散策 『鎌倉殿と十三人』十三、比企の乱と頼家追放 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 頼家はこの三月に病気になり、すぐに回復したが七月半ば過ぎからは急病になり、八月には危篤状態となった。これにより相続問題と幕府重臣の中での力関係を巡る計略が始まるのである。比企の一族は武蔵の国、比企郡の豪族で、比企達宗の妻は源頼朝の乳母が比企禅尼である。頼朝の伊豆配流時から挙兵まで、息子(甥であったが後養子になる)の能員(よしかず)を介して米潮を送など生活に必要な援助を行った。能員は、頼朝の信任が厚く、側近として仕えた。娘の若狭局を二代将軍頼家の側室とさせ、子息一幡を生み、能員は将軍家外戚となり、また、人望も多く、他の御家人との姻戚関係も多かった。

 

建仁三年(1203)七月二十日、二代将軍頼家が重病になり、翌二十三日には危篤状態に陥る。二十八日ご譲与の措置があった。関西三十八ヵ国の地頭職を弟千幡(後実朝)に譲与、関東二十八石ヵ国の地頭ならび惣守護職(頼朝が任じられた日本国総追捕使で軍事・警察権を管掌する)、長男の六歳になる一幡に与えられた。『吾妻鏡』建仁三年八月二十七日条では弟千幡に譲り渡したことをひそかに腹立たしく思い外戚の権威を笠に着て、独歩の志を心中に抱き、叛逆を企て、千幡君と外戚以下を滅ぼそうとした。と記載があるが、また九月二日条で比企能員は病状の頼家に「北条殿を、ともかく追討すべきです。そもそも家督(一幡)の他に、地頭職を分割されれば、権威が二つに分かれ、挑み争うことは疑いありません。子のため弟のため、静謐(せいひつ)を求めてのお計らいのようではありますが、かえって国の乱れを招く元です。遠州(時政)の一族が存在しては一幡の治世が奪われることは疑いありません。この話を北条正子が障子を隔てて秘かにこの密事を聞き、時政に知らせた。時政はその夜、中原広元を屋敷に呼び、広元に何の話をしたか分からないが、その後、能員のもとに「宿願により仏像供養の儀式を行います。おいでになり聴聞されますように。またこの機会に種々の事柄を話しましょう」と使いを出し「早々に参りますと」と返答した。能員の子息、親類らは諫めたが、「それでは家子郎従に甲冑を着け弓矢を所持されお連れ下さい」。能員は聞き入れず「そのような事をすれば鎌倉中騒ぎになる。仏事結縁のため、また譲与などの事について相談されたいのだろう」と郎党二人と雑色五人を連れ出かけた。時政らは甲冑を着け弓矢を構えて待ち構えており、能員が総門に入り誅殺された。

 

 逃げ帰った従者から事情を聞き、能員の一族・郎従は小御所と呼ばれる一幡の館に立てこもり、正子の命令により比企一族に追討の命により軍勢が出された。比企一族の死をも押せれない防戦であったが、多勢の幕府御家人により親景らは、その軍勢に対抗できず屋敷に火を放ち、一幡の前で自害、六歳の一幡も逃れることは出来ず、比企一族は滅亡した。一幡の遺骨を探したが多くの死骸が混じり見つける事が出来なかった。一幡の乳母が最後に菊紋の小袖を召されていたと言い、ある死骸の横に、わずかな焼け焦げた小袖が残っており、菊紋がはっきり見て取れた。源性は骨を拾い上げ、首にかけて高野山へ向かったと言う。比企家の屋敷跡に一族滅亡後も儒官として幕府に支えていた能員の末子、比企大学三郎熊本が、のち日蓮宗に帰依し、文応元年(1260)、日蓮(日郎とも)を開山として妙本寺が創建されたという。境内に一幡の袖塚と比企家の墓、そして若狭局の霊を慰める蛇苦止堂が今も残っている。例年九月一日、蛇苦止堂で例祭が行われている。『愚管抄』では若狭の局が一幡を抱いて逃げたが十一月に北条義時により殺されたと記載されている。

 

 時政らは頼家が存命中にもかかわらず朝廷に「九月一日、頼朝の次子千幡が跡を継いだ旨」を報告し、千幡の征夷大将軍の任官を要請していた。藤原定家の日記『明月記』や、他の京都側の記録等で複数確認されている。これらの事から比企能員の叛反ではなく、一幡が頼家から全て譲与されることを恐れ自身の権力への執着により北条時政の計略だったと考えられる。また『愚管抄』で中原広元は自身の屋敷で頼家の病状が悪くなる際に頼家は出家して、あとは全て一幡に譲ろうとした。これで比企能員の権勢が高まるのを恐れ時政が能員を呼び出し誅殺したとされている。時政は能員誅殺の前に、広元に頼家の譲与の意向を聞きだし、能員誅殺を決めたのではないかと私は思う。

 一人残った頼家は病状が回復し、そのことを知ったが頼家は、激怒し太刀を手に取り立ち上がったが、正子がこれを抑えつけたという。頼家は時政の討伐を命じるが、従う者は誰もおらず、九月七日、伊豆国の修善寺に移され、鎌倉殿の地位を追われた。十二歳の千幡(実朝)が頼家に変わりその地位に就く。これにより時政は幕府の実権を掌握し、北条執権体制が始まる。頼家は元久元年(1204)七月十八日、北条義時の手勢に入浴中に襲撃され暗殺された。源義朝も平治の乱後、坂東への逃走の途中、同じく入浴中に殺され、頼家の息子公暁が実朝を殺す。是も因果と言うべきか。政子は子を殺し、孫を殺した。時政は孫を殺し、曾孫を殺した。これが鎌倉での北条家対御家人の血塗られた殺戮の始まりであった。―続く