鎌倉散策 『鎌倉殿と十三人』四、頼朝 東国平定 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 治承四年(1180)十月二十一日、頼朝の御寝所をうろつく若者がおり、怪しんだが、頼朝は年齢を聞き奥州藤原秀衡のもとにいた義経ではないかと思い対面した。頼朝は義経と初めて会い、昔の話をして涙を流した。二十数年ぶりに自分の肉親に遭い、この若武者が何れ頼朝の最大の脅威になる事に予想もしていなかっただろう。

 同月二十三日、頼朝は相模の国府で初めて勲功に対する恩賞を行った。これは早々たる有言実行であった。その日、大庭景親が捕らえられ上総権介広常の預かりとなる。二十六日、固瀬河(かたせがわ:江の島対岸に注ぐ片瀬川)にて斬首され、それまでに頼朝に反旗をふるった者の処罰が行われた、

 治承四年十一月四日、頼朝は佐竹太郎義政が帰伏しないため常陸の国府に入った。新羅三郎(河内源氏二代目棟梁・源頼義の三男)の子孫であるが、相馬御厨の支配権などを巡り上総氏や千葉氏と関係が悪化し平家に近づいていた為である。上総広常が縁者である義政を矢立て橋に誘い出し謀殺するが、義政以上に兵を持つ弟の佐竹秀義は金砂城にこもった。金砂城は強固な要害の上に建ち、容易には城を落とせず、叔父の佐竹蔵人を調略して弱点の金砂城の後方から攻め破る。秀義は奥州の花園城に逃げるが、秀義の家臣岩瀬与一の懇願により、それ以上の追討がまぬがれ、後に罪を許され家臣に加わる。文治五(1189)の奥州合戦で武功を挙げた。この佐竹氏を破った事は頼朝にとって東国を完全に支配下に置いたという大きな意味があり、奥州藤原氏との緩衝地帯を広めることが出来た。

 十一月十七日、頼朝は和田太郎義盛が石橋山から安房に向かった際、義盛が望んでいた侍所別当(軍・警察を担った組織の長官)の職を上位の者を差し置き、補任を命じた。和田義盛も後の幕府重臣になる。義盛は三浦氏の一族で、三浦義澄は義盛の甥にあ、補任は義澄にとって何を物語ったのだろう。二人は一族として頼朝挙兵時から、従軍した。侍所別当は、後に騙されるように梶原の景時に代わり、頼朝も追認している。そして和田義盛は頼朝死後、二代執権北条義時の挑発に乗り和田合戦において敗死する。

  

 養和元年(1181)正月十一日、昨年十二月、土肥実平が石橋山の敗走時に頼朝を逃がした梶原景時を連れてきていた。この日初めて頼朝の命により参上した。文筆に携わる物ではないが、弁舌に巧みであり、頼朝は非常に気に召したと言う。坂東八平氏の流れで鎌倉氏の一族である。「梶原景時の讒言」が有名であり、特に義経との確執が有名であるが、多くの武士が讒言を受けた。景時は武勇の誉れ高い梶原景正の弟景久を祖とし、当時の東国武士の中でも文才にも長けていた。源平合戦の報告は他の大将また群奉行によりも詳しく詳細が記され、頼朝は感心したとされたという。この点が侍所別当として追認された理由かもしれない。また和歌を好み小倉百人一首にも選出されている。

しかし、頼朝死後、景時は、二代将軍頼家の乳母夫であり仕えるが、結城朝光の「忠臣は二君に仕えず」との詞で頼家に謀反の懺悔を行う。また、以前の讒言を咎める、三浦義村、和田義盛ら御家人六十六人の景時への連判状により相模国一之宮に退き、京の貴族を頼り上洛中、駿河の地侍に一族もろとも惨殺された。

 閏二月四日、平清盛が死去する。遺言の中に「子孫らはひたすら東国を帰伏させる計略を立てて実行せよ」との事が含まれていた。

 二月二十日、頼朝の叔父で、常陸南部で独自の勢力を維持していた志田三郎先生(源為義の三男)義広が、一族の縁故を忘れ、三万騎の兵で鎌倉を落とす計画が発覚する。頼朝の武士たちは平家の進軍の防御のため駿河の要害地に布陣させており、常陸を出た義広に対し、下野国の小山四郎朝政と下総国の下河辺庄司行平が頼りであった。義広は三万騎に「御見方する」と告げて、後に奇襲に出る。鎌倉からも長沼五郎宗政も駆けつけ、その後、暴風雨により義広軍は散り散りになり、多くの死者を出す。時間の経過とともに下河辺行平と同弟四郎政義が駆けつけ脇を固め、逃走する兵士を討ち取った。足利七郎有綱と息子等が陣を張り合戦に加わり、また八田武者所友家(後に幕府重臣)、小栗十郎重成、宇都宮所信房等が加勢し、頼朝の弟範頼も馳せ加わった。志田義広と足利忠綱は敗れて敗走した。小山朝政の先祖が藤原秀郷朝臣で、天慶年中に朝敵、平将門を追討して下野、武蔵の両国の守を兼任し、従四位以下に除され、後を受け継ぎ下野国を守護してきた一族の棟梁である。頼朝の東国平定の危機であった、この戦に忠義を思い駆けつけた武士団による勝利は一層、東国武士の団結を固めた。

   

 養和元年三月七日、三善康信が後白河院の殿上の議定について知らせがあった。武田太郎信義に諸国の源氏の追討ではなく頼朝のみの追討について下分を下すと定められたとの趣旨の内容であったと言う。頼朝は武田信義に不信を持ち鎌倉への参上を求めた。信義は即刻鎌倉に参上し、「自身には全く追討使は来ておらず、たとえ下分が下されても承諾する事はありません。もともと異心は抱いておらず去年の功績から見て頂ければお分かりいただけると」陳謝し答え「子々孫々に至るまで、御子孫に対し弓は引きません」と言う起請文まで書き忠誠を誓った。

同十日、頼朝の叔父の源行家が尾張の墨俣に陣を張り、平氏は大将軍頭亮(藤之助)平重衡平朝臣、平維盛、平通盛平忠平度らが西岸に陣を張られ、襲撃をかけられた。家行の子息行頼は生け捕られ、行家は敗走した。同十九日に尾張の住人大家中三安資が鎌倉に参じて墨俣での平氏軍との戦いで行家の従軍が殲滅し行家は熱田社にこもったことを告げる。

四月、寝所近辺の祇候衆に北条義時等十一人を決める。

   

 七月二十日、鶴岡八幡宮の社殿の上棟が行われ、頼朝は大工に馬を与えた。頼朝は義経に馬を引くよう命じたが、それを渋った。頼朝は「役目が卑しいと思いあれこれと言い渋っているのだろう。」義経は非常に恐れ入り、すぐに座を立ち二頭の馬を引いた。御家人の手前、武士を統率する為には、義経は頼朝の家臣であり、そのことが義経には理解が出来着なかった。

八月十三日、朝廷は、藤原秀衡に頼朝を追討、平資職(すけもと)に木曽義仲へ追討するように宣旨が下された。これは平家の計らいによるものであった。十五日平経正が義仲追討の為、北陸道へ出陣した。

同二十六日三善康信から飛脚が届き、十六日伊勢の守藤原清綱・構図の介藤原忠清・舘太郎貞保が東国に向かって出陣し、十分気を付けるようにとの内容であった。九月三日、平資職が義仲を責めようとしていた今朝に急死する。

  

 寿永元(1182)年八月、頼家生まれる。

 寿永二年三月、頼朝、義仲との武力衝突の恐れがあったが、義仲は二月に頼朝と敵対した志田義広と頼朝から追われた行家の二人の叔父を庇護し、軍に加えた事で関係が悪化した。義仲の嫡男義高を頼朝の娘、大姫の婿として人質に出し、頼朝との対立は一様解決する。

 平維盛を大将とする十万の大軍の義仲追討軍は越前火打城等で勝利し、加賀の宅間の関と快進撃の連勝を続け、残るは越中のみとなる。しかし義仲の家臣今井兼平の六千の先遣隊が平盛俊の先遣隊が陣を張る般若野を奇襲し、平家軍が倶利伽羅峠まで撤退する。 五月十一日、義仲は、越中、礪浪山の倶利伽羅峠で平維盛率いる平家軍十万の兵を破る。篠原の戦いにも勝利し、勝に乗じた義仲軍は沿道の武士たちも加わり拡大していく。六月十日、越前国、同十三日には近江に入る。七月二十五日都の防衛を断念した平氏は安徳天皇を擁して西国へ逃れた。木曽義仲は、同二十七日に入京するし、後白河院から官位を受ける。しかし、混成軍で、無秩序で、兵糧の手はずもなく、兵は略奪を行い秩序の回復が出来ず、閏十月一日、西国での平氏との水島の戦いで惨敗した。その時すでに頼朝の代官として弟範頼・義経が大将となり京に向かったことを知る。―続く