源頼朝は主従関係について自分に忠誠を誓う人間には寛容であった。そして信頼できる人間に対し側近としての愛情を注いだ。しかし頼朝は上総介広常の様に自身の意思に反する者や自分に対して忠誠を示さなかった者、弟の範頼や義経に見られるように容赦がなかった。
治承四年八月十七日、源頼朝が挙兵、北条時政邸が拠点となり伊豆国目代(国司の個人的な職)山木兼隆を襲撃し討ち取り、八月二十日土井実平の所領相模国土井郷(神奈川県湯河原)に入った。そして、平氏方の大庭三郎景親の三千余騎が立ち塞がり、伊東祐親に追われ、二十三日には夜戦を仕掛けられた。三浦勢が豪雨の中、参陣が遅れたために三百騎程度の頼朝軍は大敗した。これが石橋山の戦いである。この時、後に後の幕府重臣になる梶原平三景時は大庭方に就い、頼朝の所在を知っていたが情に思う所があり、頼朝を逃している。また、北条時政の嫡男宗時が大庭景親に就いた伊東祐親に討ち取られた。そして敗戦を知った三浦勢は衣笠山城に引き返したが三浦義明(八十九歳)衣笠城にこもり嫡男義澄や頼朝を逃がすための時間を稼ぐために、追尾してくる畠山次郎重忠、河越太郎重頼、江戸太郎重長と戦い討ち取られた。後に、頼朝は三浦義明の十三回忌に自ら出向き労をねぎらっている。「義明は私と一緒に生きてきた」と百六歳の義明として恩賞を与えている。
頼朝軍は四散し土肥次郎実平が準備した小舟に頼朝と実平が乗り真鶴岬から安房へ脱失し、安房国平北郡の猟島に着いた。頼朝は父の実朝が上総介で育ち上総の御曹司と呼ばれ、保元・平治の乱において義朝に味方していたため、上総介広綱のもとに行こうとしたが、安房の住人で頼朝の幼少期に仕えていた安西三郎景益は治安が悪く、こちらに参上するように御書を送ることを進めた。後の幕府重臣になる安達盛長に千葉之介常胤に御書を持たせた。千葉介常胤は早々に三百騎を引き連れ参上した。そして、下総国の国府に向かう。頼朝は宴席の際、常胤を座右に座らせ「これからは常胤を父の様に遇したい」と言った。頼朝にとって大きな後援者が出来たが、時政とは違い精神的な面でも支える後援者であったと考える。
上総介広綱は遅延し、理由として二万騎を集めるため時間がかかったと言う。しかし、頼朝に大将としての力量が無ければ逆に打って出て、その首を平家に差出す二心を抱いていたと言う。頼朝は広綱に遅参を咎めた。広綱は人の主となるにふさわしい様子を見て進んで従ったとされ、平家を倒すまでは重要な人物であった(後、頼朝の命で梶原景時に謀殺される)。
下総国に、に着くと豊島権守・葛西清重が参陣、また、古くからの源氏の家人で武蔵国足立郡を本拠とする足立右馬允遠元(あだちうまのじょう)が迎えにあがった。遠元も後に重臣として幕府政治に関与する。また、頼朝のもう一人の乳母(故八田武者頼綱の息女で小山下野大掾(だいじょう)政光の妻、寒河尼(さむかわのあま)が、末子を連れて参上した。昔の話を交わし、寒河尼は子息を頼朝の側近として奉公させたいと望みを告げ、朝朝は子息を召して自ら元服させ烏帽子親になっている。この若者は後の小山七郎宗朝(後に結城朝光))であり、重臣として幕府政治に関与する。その年十四歳であった。頼朝の兵は二万七千余騎になっていた。
頼朝に従属しない者は討ち取る心づもりでありながら参陣する者には許しを与えや。武蔵国境の隅田川沿いの長井において、衣張山で三浦義明を討った畠山重忠が参陣し、河越重頼、江戸重長も参上した。頼朝は「重忠らは、源家に弓を引いたものであるが、(このような)勢力のあるものを取り立てねば目的は成し遂げられないであろう。そこで忠に励み直心を持つならば、決して憤懣を残してはならない。」と、あらかじめ三浦一党によくよく仰せられた。彼ら異心を抱かないことを申し上げたので、お互い目を合わせ納得して席に並んだ。」(引用:現代語訳吾妻鏡五味文彦・本郷和人編)武蔵国において。畠山氏、河越氏、江戸氏は桓武平氏平氏の同族でであり、河内源氏の源頼義・義家に仕えた坂東八平氏であった。河越氏は源義朝に仕え忠誠に励んだ。義経の正室に娘を嫁がせ、義経と共に後白河院に官位を受けたことで頼朝の怒りにふれ誅殺される。江戸重長は武蔵の留守居役のままとどめられた。畠山重忠が頼朝に忠誠をつくし、その後の功績と武士としての誉れと称えられ、頼朝の信任を得、勢力も拡大した。頼朝死後に北条時政により謀叛の罪を着せられ誅殺されてる。
治承四年(1180)十月七日、千葉常胤(ちばつねたね)の進言により、相模国の鎌倉に入る。東国をすべて味方につけたのではなく、その向こうに奥州があり、鎌倉が源氏の先祖八幡太郎義家以来の源氏の本籍地であった。再起を図るに適した地であったことと、天然の要害に囲まれ、防備に適したためだといわれている。先陣は畠山重忠が勤め、頼朝の後ろには千葉常胤が従った。東国武士の中でも武蔵国と相模国の武士は非常に強く、その武士団を束ね平家に対等する軍事力を有する事が出来た。頼朝が鎌倉に入りをはたし由比ガ浜にあった頼義が建立した八幡宮を小林郷の北山に移し鶴岡八幡宮として若宮大路の建設に着手する。当時、木曽義仲(十一月に挙兵)、甲斐の武田、足利、新田と清和源氏の流れをくむ武士が挙兵を考えていた為に、頼朝が清和源氏の嫡流を世の中に示すべく、この鎌倉の地には大きすぎる鶴岡八幡宮を建設したと考えられる。
治承四年十月十三日、木曽義仲が亡き父義賢の後に倣い信濃国を出て上野(こうずけ)国に入る。住人は次第に従い、足利義綱からの妨げがあっても恐れる事は無いと命じた。
十月二十日、富士川に平家と頼朝率いる軍勢が相対し、水鳥が飛び立つ音を聞き大軍が押し寄せ包囲されたと思った平家の左大将平維盛は京都に撤退する。これは水鳥の音だけではなく、甲斐源氏の武田信義(武田信玄の先祖)が駿河に維盛が入ったという知らせを受けた信吉の諜報活動と維盛に対して牽制の挑発活動を行った結果が大きい。駿河の目代を倒し「富士山麓の浮島で待ち合わせ、お目合わせいたしましょう」と決戦を挑む書簡を送る。維盛は頼朝軍と後方に信義郡が迫ることを察知し、水鳥の音で包囲されたと思い込み退却した。この年西国では日照りが続き、平家は兵糧少なく、頼朝が石橋山で敗れてから東外の準備にほぼ二か月がたっている。士気は落ちており、長期戦は難しい状況だった。頼朝は富士川の戦で勝利したが戦功は信義によるものが大きいと考える。頼朝は直ちに平家追討を指示するが、常陸国の佐竹太郎義政を討ち、東国の支配を確実にすべきであるとの三浦義澄、千葉常胤、上総介広常の進言を受け鎌倉に戻った。その後東国における目代を攻めて平家とのつながりを断たせ、挙兵に参加する武士の所領を保証し、敵方の没収地を新たに恩賞とする事の政策が採られる。貴族や平氏に不安と不満をいだく東国武士にとって頼朝に従う事で変革をもたらされることを願い、多くの武士が集まった。富士川の戦いにおいて、いかに正確な情報と迅速な対応が必要なのかは鎌倉幕府に受け継がれていく。―続く