『鎌倉殿と十三人』の時代背景として律令国家における荘園制度がある。中学、高校時代に歴史で勉強した事を思い出していただきたい。何故鎌倉幕府が出来、執権制度により鎌倉幕府が約百五十年間続いたかが理解がし易くなる。
大化の改新により律令国家が始まり、土地や人はすべて朝廷・国が所有とする公地公民が原則であった。朝廷・国が農地開拓を進める為に当初は「口分田(くぶんでん)」と言う農民に土地を貸し与え税を取る仕組みが成立していた。その後、墾田地を増やし、税収を高めるために「班田収受法(はんでんじゅうじゅほう)」が出来、一代限りの所有権を認めた。しかし農地開墾は非常に時間と労力がかかり、効率の良い鉄製農具は非常に高価であった為に墾田の成功者もいるが失敗者も出る。土地を捨て逃げ出す農民も多くなった。一代が過ぎると、その土地の権利もなくなり、墾田意欲も失われる。そのために土地の開墾をした者の三世代まで所有を認める「三世一身法(さんせいいっしんほう)」を出す。成功者は地方で豪族となり武装して農地を自営する。
平安期に入り、「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」が出来、新しい墾田地はその者の私有地になる法律であった。天皇の皇子が臣籍降下した桓武平や嵯峨源氏、藤原氏が地方の任期四年の国司として就任し、任期終了後は子息たちが残り開墾事業を引き継ぎ、各地に武士団が形成されていく。また、経済力のある貴族や地方豪族は逃げ出した農民を雇い入れ、墾田地を拡大してゆき、貴族たちが台頭し、政治の主導権を握ると大きな寺社に与えられていた税を払わなくても良い「不輸の権(ふゆのけん)」を貴族の土地にも当てはめた。また、地方で朝廷によって選ばれた下級貴族が国司となり税の徴収などが行われていたが、貴族は貴族の持つ土地には国司が介入できない「不入の権(ふにゅう)」を得る。国司はその分を豪族に徴税を高め、地方豪族は国司との対立も多くなり自分の土地は自分たちで守ると言う武装集団出来、国司や役人との争いが頻発した事で、武装集団は武士として発展していく。そして、名目上、貴族に土地を献上する寄進地系荘園にすることでで、少しの税を貴族に納め、荘官(個人的な役目で正式な官職ではない)としてその土地を管理する方法を考え出した。しかし、それは地方豪族にとっては、もろ刃の剣であり、法的な土地の所有者になった貴族の顔色を常に窺わないと荘官としての地位を解任させられる。武士・侍の言葉の語源は「さぶらう者」とされ、意味は貴族の脇に控えて仕える者と言われ、多分な忖度や饗応が行われた。畿内・西国は京にも近く、朝廷や平氏の所領が多かったために荘園管理は上手く行われていた。しかし、関東諸国には貴族への寄進地荘園が多く、武士達の不安と不満が混在していた。
この時代、武士が個人の領地の安泰を考え、親、兄弟であれど隙があれば乗っ取る、ましてや他人の所領であるならば、なおさらであり、弱肉強食的な世界であった。また、相続等の法令もなく、兄弟や一族間でも力の強いものがすべてを奪うのが、この時代の慣わしであった。こういった背景から東国の武士達はは、武士を束ね、秩序と訴状の決裁、そして朝廷および貴族に対等に話が出来る人物を必要としていた。そこで東国武士は頼朝に挙兵を促し、担ぎあげたのである。