鎌倉散策 称名寺(しょうみょうじ) 今泉不動 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 
 境内の奥に不動堂が有り、通称今泉不動と言われ、弘仁九年(818)に弘法大師空海の創建と伝わる。高野山の金剛峯寺が開かれた二年後の事である。称名寺解説書よりと、諸国巡業において鎌倉の今泉の地で紫雲に包まれ光明の指す山に出会い、人伝いに神仙の棲む金銭山ということを知った。大師がこの山に入ると翁・媼が現れ、「我等はこの山に数千年住み、師の来るのを待っていた。この山は二つとない霊地であり、速やかに不動明王の尊像を刻み、密教道場の壇を築き末世の衆生を救いなさい」と告げた。大師は二尺八寸の石の不動明王と一尺二寸の大黒天を彫り上げ、伽藍の守護神として祀った。また、翁・媼は「この地は水が乏しく、村里も困っているから豊かな水を進ぜよう」と、傍の岩を穿ち陰陽の滝を流し村里に恩恵を与えた。以後金銭山を改め今泉山と称された現在の地名の今泉と称されたと言われる。この翁は不動明王の化身で、媼は弁財天の生まれ変わりとも伝えられる。

 

宗派:浄土宗。 山号寺号:今泉山一心院称名寺。 創建:承安五年(1175)。 開山:空海。 本尊:阿弥陀如来。 寺宝:本尊木造阿弥陀如来、観音菩薩、聖衆来迎像ほか。

 

 称名寺は、初め不動堂の別当で円宗寺と称し、建久三年(1192)源頼朝が征夷大将軍に就任の都市、「上野村白山社家系中納言法師の弟寂心法師」がてらを開き、密教に属し頼朝も深く進攻した。この称名寺は今泉の地の奥に九十九谷と言われる山々に抱かれ、鎌倉幕府歴代の将軍の信仰を集めた寺院である。その後、北条九代に至った貞享二年(1684)の夏、武州深川の僧・直誉蓮入師が江の島弁財天のお告げで、この山に七日読座念仏した所不思議にも、大黒天の背負袋から毎日二から三号の米が漏れ出して飢えの患いが無くなり、是から近郷の男女が帰依しお互いに協力し、間もなく不動堂、弥陀堂が建立された。元禄六年81693)芝の増上寺・貞誉大僧正より、「今泉山一心院称名寺」の山号寺号を受け、当時数多くの修験者道場として著名であると共に、現在の浄土真宗寺院としての基礎を確立された。

 

大船より鎌倉湖畔巡回バスに乗り今泉不動下車、歩いて五分ほどで称名寺に着いた。新しい墓苑の横の緩やかな坂を歩くと、鼻高地蔵地蔵と六地蔵が迎えてくれる。その先を進むと右手に勢至丸像(法然の幼小名)左手に庫裡と本殿が有り、本尊阿弥陀如来像、阿弥陀聖衆来迎像が金色に輝き優美なお姿をされていた。また、弁天堂と不動堂へ上がる階段がそれぞれある。陰陽の滝も見え冬場であるが先ほどまで降っていた雨で水量は多く水が落ちる音を響かせていた。滝に降りるとやぐらが有り不動明王が二体祀られており、一帯は首が落ちていた。長い階段を登って行くと不動堂が有り堂内に右手に権を持つ茶華職の不動明王が安置されている。その横の石段を少し登ると三十六童子の石像が置かれ、その山の上に大日如来が安置されていた。昨年の台風の影響か大日如来の置かれている場所には行く事が出来ず、

 

一月の平日で、一時間近く境内を回ったが、誰一人会うこともなく、静寂の中で陰陽の滝の音が耳に届き、夏場に来ると木々に囲まれた陰陽の滝が清涼感を一層楽しませてくれるだろう。