浄光明寺は源頼朝の願いで文覚(もんがく)上人が建てられた堂が始まりと伝えられ、建長三年(1251)鎌倉幕府六代執権・北条時長が、開山に真阿を迎えて建立した。真阿は生没年が不明であるが、真聖国師(しんせいこくし)と言う国師号を与えられるほどの高僧で、法然上人から続く善導大師本願(ぜんどうたいしほんがく)の弟子である。創建当初、浄土宗の寺院ではなかったかとうかがえる。また、寺院として真言・天台・禅・浄土の四宗派の勧学院を立て、学問道場としての基礎を築いた。北条氏の帰依が篤く、長時はこの浄光明寺で没している。元弘三年(1333)には後醍醐天皇の勅願所となり、また、皇子の成長親王が鎌倉への下向時の祈願所となり、寺領も安堵した。また足利尊氏は建武二年(1335)、この寺にこもり、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたという。尊氏・直義兄弟の帰依は篤く、寺領や仏舎利の寄進を受けたと古文書にあり、その後も鎌倉公方(鎌倉府の長)の保護を受け、鎌倉公方歴代の菩提寺であったと伝えられている。
宗派:真言宗泉涌寺派。 山号寺号:泉谷山浄光明寺(せんごくざんじょうこうみょうじ)。 建立:建長三年(1251)。 開山:真阿 しんあ(真聖国師 しんしょうこくし)。 開基:北条長時。 境内参拝は自由。阿弥陀堂での拝観は木・土・日・祝日の十時から十二時、十三時から十六時、雨天休止で、拝観料二百円。
大晦日の夜、浄光明寺の不動堂の不動尊が開帳され護摩供養が行われる。「八坂不動明王」と称され、京都の八坂の塔が御所の方角に傾いた為に浄蔵貴所と言う八坂寺の僧が不動明王に祈祷し、傾きを元に戻したと言う。その際の不動明王が浄光明寺不動堂に安置されている「八坂不動明王」である。京都の八坂寺は、臨済宗建仁寺派の中興により禅寺となり法観寺と改名されている。現在は数多くの戦火で足利義教が再建した五重塔のみを残している。したがって正式には法観寺の塔であるが、京都の人々は親しみを持ち「八坂の塔」と呼び、東大路から八坂通りを上がると塔が見え、京都の有名な景色になる。
その後「八坂不動明王」は京都高尾の神護寺に祀られたが、文覚上人が以仁王(もちひとおう:後白河天皇の第三皇子)「以仁王の命旨」(源氏に平家打倒の挙兵を即した命令)が不動明王像の中に隠し、伊豆配流中の源頼朝に渡したと言う伝承が残されている。しかし、この不動明王像は様式等から南北朝から室町期の像ではないかと考えられている。
住居を十時半に出て、JRで鎌倉駅に出て、真っ暗な今小路を歩く。浄光明寺の山門の二つの提灯が、冷たい空気の暗い道を来た私をほっとさせてくれた。十一時半前、寺院の人達が僧堂から出てこられ、不動堂を開けられ護摩供養の準備が始まった。火を焚いている間、何処からか除夜の鐘が鳴り、浄光明寺の鐘楼でも鐘撞が始まった。煩悩の多い私も一つ鐘を撞かたせていただき、不動明王に参拝し、お祓いをして頂いた家内安全のお札を頂いた。この不動明王像は玉眼を入れているのか、薄暗い堂内の中、護摩を焚く炎に、こちらを見据えたような眼光の鋭さを映し出し、いかにも不動明王とした凛とした姿であった。町内の人だろうか二十人ほどの人が鐘楼の鐘を撞く列が出来ていた。今年の始まりは思いもよらず、鎌倉で迎えたことを感謝し、また暗い今小路の道を歩き、家路へと向かった。