鎌倉散策 建長寺三門(三解脱門:さんげだつもん) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 本来禅寺の門を山門と呼ばれるが、建長寺では三解脱門の略として三門と称される。三解脱は涅槃(悟り)に至るために通過しなければならない三つの関門(空・無作・無相)のことである。鎌倉時代末期には総桁行九十七尺(2939.39センチメートル)あったと記録されている。この三門は安永四年(1775)に再建されたもので、当寺の第二百一代、萬拙碩誼(ばんせつせきぎ)が、蘭渓道隆の五百年忌により再建された。三間二重門では東日本最大の山門であり、国の重要文化財である。

建長寺大工の河内長兵衛が棟梁を務め「建長興国禅寺」の扁額を懸ける為、上層に軒唐破風が設けられた。この扁額「建長興国禅寺」は寺伝では後深草天皇(1243-1304)の宸筆と言われる。平成四年の山門大修理の長で、題字底板、横二メートル、縦二.六六メートル。額縁、横二.六五メートル、縦四メートルの大きさであった。また、扁額の裏に「天分八年(1539)亥六月廿三日、雪大工左衛門大夫新吉」と言う墨書が発見され、扁額の制作年代と鎌倉大工の作であることが判明した。

 

 この門の再建について、逸話が残されている。萬拙碩誼は再建の費用の寄進の依頼の為、全国各地を回り勧進を仰いだ。その懸命な努力を見ていた建長寺で餌等を貰っていた狸が和尚の身に化け、全国勧進を仰いだ。身を寄せる村ごとで、狸の嫌いな犬を寄せないこと、夜半和尚に合わない事等を伝え、化けていることが判明しないようにしていた。しかし、ある旅籠で、その和尚の部屋の障子に狸の影が映っていたり、浴場で女中がしっぽを洗う和尚を見たりした。その時、世間では「狸和尚」の話が広まっており、翌日、駕籠に乗っていた狸和尚に、駕籠かきは犬をけしかけ、引きずり出し、殺してしまった。狸和尚の亡骸はいつまでたっても狸に戻らないため、驚いて役人に届け出た。三日後に狸の正体が現れ、無罪放免となったが、建長寺三門の再建の事実を知り、駕籠に残された狸が集めた金銭を建長寺に届けたと言われている。全国各地にこの話は伝わっているようで、長野県ではムジナが和尚に化けた話があるようだ。

 

楼上には釈迦如来、十六羅漢、五百羅漢が安置されている。日常、日光が差さない分、十六羅漢像の色彩は残っている。五百羅漢像は現実に二百八十体ほどであるが、五百の意味合いは沢山、多いと言う意味である。山門の下を通ることにより心が清浄になると言われる。

 令和元年十一月三日、建長寺まつりの三日間、二十年ぶりに公開された「三解脱門」である。午前十時から十五時までの一時間ごと計六回で、限定二十人が拝観する事が出来る。当日、住居から小袋谷のバス停に行き、バスが連休の為、十五分ほど遅れたため建長寺に着いたのが九時四十分であった。三門の整理券受付に行くと、すでに十三時の分からしか無かった。拝観料をお支払いし、整理券をいただき、十三時まで待つことにした。その間も高校・大学で行った文化祭のような雰囲気で色々と楽しませて頂き、良い勉強をさせていただいた。これも神仏のおかげか、他力本願と思う。この間の出来事は次回記載させて頂きたく思う。

 

 楼上に上がる階段は、急で二十人の限定が理解できる。拝観には、お一人の僧侶が説明していただき、楼上の中での写真撮影が可能であるが、周りの回廊(屋外)の手すりが低く危険なため。回廊からの写真撮影はやめて頂きたいとの事であった。楼上の中で経を唱え、写真を撮らせていただき、回廊を渡らせて頂いた。山門の下を通ることにより心が清浄になると言われるが、楼上に上がらせて頂いた事は、釈迦如来のお導きのように思われた。この様な拝観が継続して行われ、同じように喜びを共感する事が出来るように、怪我の無いよう拝観者は心掛けたい。

 

建長寺(けんちょうじ) 鎌倉市山ノ内8 ☏0467(22)0981 拝観時間:八時:~十六時。拝観料三百円。北鎌倉駅駅より徒歩十五分。鎌倉駅東口江ノ電バス大船行き建長寺下車。