鎌倉において、非常に人気のある稲荷神社である。近くに銭洗弁財天、源氏山公園、葛原岡神社、高徳院等があり、簡単なハイキングコースとして歩かれている。特にこの佐助稲荷は異種独特な雰囲気で、平日に一人で行くのが怖い感じがする。京都の伏見稲荷においても、異種独特な景観を保ち、朱の鳥居のトンネルを歩き、目が回りそうになる。京都、大阪では稲荷神社をお稲荷さんと呼ぶが、鎌倉ではどうだろうか。佐助稲荷のこのあたりでは子供が悪いことをすると佐助の白狐に食べられると言って子供をたしなめさせたりする。しかし、本来は源頼朝に平家打倒を告げた狐である。
平日の午後、市役所に行く用事があり、出かけた。要件を済ませ、何度か訪ねたことはあるが佐助稲荷でも行こうと思い市役所通りを西に向かう。鎌倉税務署を過ぎた信号を右に入り閑静な民家の中を歩く。銭洗弁財天、佐助稲荷の道標があり、それに従い行くと銭洗弁財天、佐助稲荷の分岐に入り佐助に向かう。すぐに佐助稲荷神社下社があり、そこで奉納用の白狐やお札、お守りをいただけ、また、こちらでは縁結び十一面観音像を祀られている。昔来た時は鳥居の入り口だったように思われたが。ここを過ぎると次第に山道に入り鬱蒼とした樹木に囲まれ、朱に塗られた鳥居が続けさまに四十本ほど建てられ、赤い幟旗(しき)が百本ほど建てられている。鳥居を過ぎると急な石段が有り登ると、その先に、小さな本殿に到着する。
伊豆・蛭ヶ小島で逼塞していた源頼朝に「隠れ里の稲荷」と名乗る翁が夢枕に立ち平家討伐の挙兵を促した。頼朝はその託宣に従い旗揚げし、戦功をあげた。その後、鎌倉入りした頼朝は「隠れ里」と呼ばれるこの地で祠を見つけ、畠山重忠に命じ、お礼に建立された神社である。源頼朝の幼少の頃、右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)の官名から佐殿(すけどの)と言われ、頼朝を助けた事により「助け稲荷」「佐助」の名が付いたと言われる。境内の中には奉納された小さな白狐が数多く至る所に並べてある。また狐の石造なども置かれ、その周りにも白狐が並べられている。一つずつ表情を見ていると、おかしな事に可愛い白狐に見えてくる。また境内の端に古くから神水と讃えられ、田畑を潤してきた水源の霊弧泉(れいこせん)がある。佐助稲荷神社は鶴岡八幡宮の境外末社で、同八幡宮の非情の祭の御旅所であったと言われる。この末社の関係は明治四十二年(1909)に解かれた。
祭神:宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、佐田彦命(さるたひこのみこと)、大宮女命(おおみやひめのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)。
例祭:二月初牛日。 宝物:豊受姫命(とようけひめ)像。 神徳:商業繁盛、病気平癒、学業成就、縁結び。
地名として社の立つ佐助ガ谷は以前、佐介ガ谷と言った。この地域に千葉介、三浦介、上総介の屋敷があり、三介ガ谷と呼ばれたのが転訛したものともいわれる。しかし、佐助が今も残る事が頼朝および現在の鎌倉市民にとって重要な土地であったのだろう。社殿に拝礼し、奉納された白狐を見ていると、あっという間に時間が過ぎ、午後四時になっていた。周りは薄暗くなりつつあり、やはり帰り道は恐怖感を感じる。佐助稲荷神社、銭洗弁財天、葛原岡神社が鎌倉の最大のパワースポットとしてあげられる理由がわかるように感じ、足を速めた。