鎌倉散策 熊野神社(大船) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 多門院を訪ねた後、横の鳥居をくぐり石段を登って行くと熊野神社が建てられている。

鎌倉の熊野神社は極楽寺の熊野新宮(祭神:日本武尊、速玉男命、素戔嗚命、建御名方の命)、浄明寺の熊野神社(祭神:伊弉諾尊、伊弉冉命、天宇順女神:あめのうずめのみこ)、手広の熊野神社(祭神:伊弉冉命、事解男神:ことさかのおのかみ、速玉男神)、大船の熊野神社(祭神:日本武尊)の四社がある。

 

 熊野神社とは熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)から勧請された神社を指すが、大船の熊野神社は社史や祭神からするとこの定義には当たらないとされる(熊野三山の御祭神に日本武尊(やまとたける)は祀られておらず、日本武尊のみを御神体とする事)。しかし、私にとって突き詰める事は野暮なことで、大船の里人の鎮守社であることには間違いない。

 大船地区の熊野神社は天正七年(1579) 甘糟長俊が熊野神社を勧請し、隣接する多門院は永享の乱(1438~39)で衰えた観蓮寺を現在地に移し寺名を改め、同時期に多門院も開山に南介僧都(なんかいそうず)を迎えて創建されたと伝えられている。明治期の神仏分離までは多門院が別当を務めた。甘糟氏は相模平氏の出身の一族で、室町期には上杉氏、後に玉縄城主の北条の家臣を務めた一族である。『相模風土記』によると甘糟長俊が束帯(朝廷の公事に着用する礼服)姿の木像を勧請して祀ったと伝え、御神体は今も祀られており、御神体の台座には天正七年四月吉日に長俊勧請した旨が記載されている。長俊は神仏への信仰心が篤く。永禄十年(1567)には常楽寺の文殊菩薩の修理等も行っている。また、崇徳天皇を祀っている末社の金比羅社も寛永二年(1625)に甘粕時綱により境内に移されたと伝わる。

祭神:日本武尊。 例祭:九月二十四日に近い日曜。 境内社:金比羅社。 神事芸能:鎌倉神楽、子供神輿渡御。神徳:家内安全。

 甘糟氏は大永六年(1526)安房の里見実が玉縄城に攻めた際に甘糟氏をはじめとする三十五名が討ち死にし、現大船駅西口の柏尾川戸部橋近くに玉縄首塚があり、甘糟氏の事跡を示している。

 

 境内にこの規模の社殿では珍しく、木像の屋根付きの舞殿が作られており、例祭の祭に、ここで鎌倉神楽が行われるのだろう。ここから大船、北鎌倉、鎌倉の山々の景観が美しく、西日に照らされて銀色に輝いていた。