源氏山の頂から、再び頼朝像を通り、化粧坂の分岐まで来た。葛原岡神社まで二百メートルほどで行ける。前回も申し上げた通り、この源氏山公園は初めてである。ゆっくり歩いていると、次第にカップルが増えてくる。楽しそうに手をつないで。
葛原岡神社 くずはらおかじんじゃ
祭神:日野俊基(ひのとしもと)。 例祭:六月三日(俊基の命日)。境内社:えびす大黒天社。
神事芸能: お渡り神事(例祭)。 宝物:大黒天神像、えびす神像、神輿。
神徳:学業成就、除災招福、交通安全。
この地は「鎌倉欖勝考」に梶原の景時の祖先影成りが桓武天皇の祖、葛原親王を祀る社を立てたことによる葛原が岡の地名と記されている。明治二十年(1887)、明治天皇が倒幕の功労者として称し、日野俊基を祭神に創建された。また、由比ヶ浜の総鎮守となる。例祭の六月二日の宵宮から、三日にかけて、由比ヶ浜の六地蔵あたりは一晩中祭で賑わう。
日野俊基は後醍醐天皇に仕えた忠臣。倒幕計画に参加し正中の変で捕らわれるが、一度は赦免される。元弘元年(1331)、元弘の変で再び計画が発覚し、鎌倉に護送され、後醍醐天皇は隠岐の島に流され、俊基は翌年、葛原ヶ丘で斬首された。葛原岡神社へ進む左脇、境内の南側に俊基の墓とされる。日野家の家紋である、鶴丸紋が刻まれた石柱の後ろに宝篋印塔があり、国史跡に指定されている。
俊基が処刑される直前、家来の後藤助光が面会した折、妻からの手紙を渡したと「太平記」にある。
辞世の漢詩「古来一句 無生無死 万里雲尽 長江水清」 辞世の和歌「あきをまたで 葛原岡に 消ゆる身の 露のうらみや 世に残るらん」。漢詩と和歌において俊基の心境の変化があると思われる。本殿左わきに「日野俊基卿終焉の地」があり、素朴な供養塔が置かれている。建武の中興を見ることなく斬首されたが、翌年元弘三年(1333)鎌倉幕府は滅亡した。本殿をお参りし、引き返すと、蓮の花が二輪、俊基と妻の様に気品を保ちながら、よりそうように咲いていた。
葛原岡神社は現在、縁結び、恋愛成就の場として、二つの石の存在が言われとなっている。
魔去ル石があり、勝る、幸せを勝ち取る。また、縁結び石は男石と女石があり五円玉月の赤い糸ひもで結び付けられている。一人寂しく、大阪にいる妻との赤い糸はどこに行ったのだろう。私も昔は若かった。今の若い子たちと、そう変わらない人生を送ってきたつもりだ、それ以上だったかもしれず、バブルの時はすごかったと思う。しかし娘との会話には大きな堀を通して話すようで、いつも上から目線で話されている。嫌味な爺ですが、いくら祈っても貴方達もいずれ、こうなるのです。今を謳歌して下さいと心で呟きながら、銭洗弁財天に向かう。