鎌倉散策 亀ヶ谷切通 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

鎌倉散策 亀ヶ谷切通

 

 八月十四日、圓應寺に行くため北鎌倉に出た際、帰り道に未公開の寺院の禅居院、長壽寺の山門の写真を撮る。鎌倉街道から長壽寺に向かう為に左に入ると、鬱蒼な木々に包まれた、緩い坂が続いている。「ここが、亀ヶ谷切通か」と思い、先を進む。鎌倉在住の人にとっては当たり前の事でも、新しい発見に感動する。現在は舗装されているが、坂の頂上あたりに、六地蔵が置かれ、鎌倉の情景を少し感じる事が出来る。少し行くと、亀ヶ谷切通の掲示板があり、坂は急な下り坂になり、その先は薬王寺、岩舟地蔵のある扇ガ谷に出る。小袋谷からバスに乗り、上町のバス停で降り、この切通を通れば海蔵寺、英勝寺のある扇ガ谷まで早く行ける。鎌倉駅に行くより、便利だと思う。円覚寺にも行かなければならないため、来た道を引き返す。扇ガ谷からの登りは名のごとく亀がひっくり返りそうな急坂で、かなり湿度が高く、暑い。周りが暗くなり、スコールのような雨も降ってきた。亀ヶ谷切通は武蔵方面に通じる道で急坂の為、この坂を登って行くか目がみな途中でひっくり返ってしまったため、亀返坂と呼ばれたと言われている。私も熱中症で、ひっくり返りそうな思いで登った。

 切通について述べさせてもらうと、京都の公家で摂政の九条兼実は日記『玉葉』にて、鎌倉の町を「鎌倉城」と言う表現を用いている。また、治承四年(1180)、千葉常胤(ちばつねたね)進言により、10月7日、頼朝が鎌倉に入りをはたした。由比ガ浜にあった八幡宮を小林郷の北山に移し鶴岡八幡宮として若宮大路の建設に着手した。鎌倉が源氏の先祖八幡太郎以来の源氏の本籍地であり、天平の頃の者であったことから、再起を図るに適した地であったことと、天然の要害に囲まれ、防備に適したためだといわれている。

鎌倉の町は三方を山で囲まれ、一方が海の為、敵からの攻撃に対し、守りやすい地形である。鎌倉を囲む山の尾根は城壁の役割を果たすように稜線は木々が取り払われて削平され、切岸、平場、土塁、空堀など防御施設を設置することで造成されている。幕府が置かれ、人口も増加するにつれ、生活物資等の搬入、搬送において周囲の山が逆に交通の妨げとなった。そこで山を削り、上から通行の監視ができ、道が直線ではなく、馬が駆け抜ける事が出来ないように複数の「置石」を置いたりすることで、戦略上より効果的な切通しを作った。「鎌倉城」との完成である。

 新田義貞の鎌倉攻めの際、三方から攻撃において、化粧坂、極楽坂、巨福呂切通が最前線となり、幕府軍は金沢越後左近大夫将監(しょうげん)大、大仏陸奥守貞直、執権の赤橋守時が大将となり、それぞれ数万の武将をもって切通を死守した。その激戦を『太平記』に「天ヲ響(ひびか)シ地ヲ動ス」と語られている。新田義貞は切通の突破が容易でないことを知り、稲村ケ崎からの引潟を通り、一気に鎌倉に入った。義貞が稲村ケ崎に黄金の剣を投じ、稲村ケ崎を通過する道標となった逸話がある。

 鎌倉七口として、極楽坂切通、大仏切通、化粧坂、亀ヶ谷坂、巨福呂坂、朝夷奈(朝比奈)切通、名越切通がある。名越切通が最も鎌倉時代の姿をとどめている。極楽坂切通は、今は自動車も通行できる道路になっているが、亀ヶ谷切通は鎌倉の切通の情景を少し感じる事が出来る。散策に適した季節になれば他の切通も少しずつ歩いてみたいと思う。