鎌倉散策 瑞泉寺 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 梅雨が明け、家にいても暑さになれないため、汗をかくため午前中市内に出た。鎌倉駅にバスで行きそこから乗り換え、鎌倉宮まで行き歩いた。熱くて汗が噴き出してくる。水分をこまめに取りながら、二階堂川の通玄橋を渡ると空気が少しずつ変わってきた。

鎌倉の花五山の一つとして称されている。春には枝垂れ梅、諸喝采、シャガ等。夏には紫陽花、桔梗、葉鶏頭、百日紅、等。秋には彼岸花、秋明菊、冬桜、ホトトギス等、冬は椿、水仙、梅、福寿草等三方を山で囲まれ、多くの花が季節ごとに咲き、楽しませてくれる。他に花五山として選ばれている寺院は海蔵寺、光則寺、浄智寺、東慶寺である。

宗派、臨済宗円覚寺派。 山号寺号:錦屏山瑞泉寺。 創建:嘉暦二年(1327)。

開山:夢窓疎石。 本尊:釈迦牟尼仏。 寺宝木造千手観音座像(市文)

 錦屏山瑞泉寺の前身は夢窓疎石が、ここを禅院相応の招致として選び夢窓疎石が開山となり、二階堂道蘊(どううん「貞藤」)が開基となったのが瑞泉院で、嘉暦二年(1327)に建立した寺である。山号は先に述べたように錦屏山で、秋には紅葉に彩られた紅葉ヶ谷を囲む山が、錦の屏風のように寺を包むことから名付けられた。二階堂貞藤は(1333)に、吉野の護良親王を攻めた幕府軍の武将で、翌年、京都六条河原で惨殺された。

 足利尊氏の子基氏が初代関東管領として鎌倉入りし、夢窓疎石に帰依した。基氏は二十八歳で生涯を閉じ、遺命によりにより当寺に葬られた。基氏の合が瑞泉寺殿によりその時から瑞泉院から瑞泉寺に寺名が解明されたようだ。その後、鎌倉公方代々の菩提寺となり、関東十刹の第一位の寺格を誇っていた。本堂には徳川光圀が寄進した千手観音菩薩像が祀られ、南北朝期の頂相彫刻の秀作であり、夢窓疎石座像がある(国重文、非公開)。また地蔵堂には「どこもく地蔵」と呼ばれる鎌倉時代の地蔵菩薩像が安置されている。地蔵堂を守る堂守が生活苦から逃げ出そうとするところこの地蔵が枕元に現れ「どこも、どこも」と告げた。堂守は「苦しいのはどこも同じ」と悟り、地蔵堂を守り続けたと伝えられている。

  本堂の裏側にある、岩盤を彫刻的な手法により、庭園となした、「岩庭」とも称されるこの庭園は、書院庭園の先駆けをなすものであり、鎌倉に残る鎌倉時代唯一の庭園である。昭和四十年(一九六九)に古地図を基に発掘された。現在非公開だが、植え込みや石組みなど一切の無駄を省いた迫力にあふれ。異彩を放っていると言う。その岩盤に削られた十八曲がり(西側の二つの橋を入れて)の石段を登り、錦屏山の山頂に出ると、夢窓国師が建てた小亭の徧界一覧亭がある。修行の庭としての岩庭と一体になり悟りの境地を表していると言われる。後に、後醍醐天皇や足利尊氏らの帰依を受け、京都の天竜寺や西芳寺の庭園を創作するなど臨済宗の興隆に尽くし、七代の天皇から国師号を受け七朝帝師とも尊称されている。水戸光圀は『新編鎌倉志』の編纂で訪れており、吉田松陰は叔父が瑞泉寺の住職だったため二度訪れ、最後は黒船に乗り込み密航しようとした時だったと伝わる。

 境内には吉野英雄の歌碑、大宅壮一評論日、久保田万太郎の句碑、山崎方代の歌碑がある。鎌倉文士のリーダー格であった久米正雄の墓もある。この時期、花で有名な寺院だが、桔梗と芙蓉だけが咲いていた。観光客もほとんどおらず。本殿と地蔵堂に手を合わせた。木陰の椅子に座り、濃い緑色の山を見ながら紅葉の時期を想像してみた。

 帰りに理智光寺跡の護良親王の墓を訪ねる。理智光寺は願行上人が開いた寺で、今は寺跡を示す石碑のみが置かれている。護良親王の首を葬ったのがここの住職であった。鬱蒼と生い茂る緑の中に真っ直ぐな石段が有り、息を切らせながらゆっくり八十四段の階段を上る。上がったところで策が張られ、立ち入ることはできない。その上にまだ階段があり意志半ば二十八歳で命を奪われた護良親王の墓標がそこにある。

 瑞泉寺の参道に戻り、休憩がてら、早めの昼食をとる為、もみじやさんに入る。以前一度ここに来たことがあり、その時、関西風のきつねうどんと炊き込みご飯のセットを食べた。老夫婦が営むこのお店、おかみさんが学生の時に京都で家族とともに住まれていたとの事で、昆布だしの効いた美味しいおだしだった。今日はこの暑さで、お品書きも変わり、ざるそばの炊き込みご飯のセットを頼んだ。山芋短冊、お漬物、最後に白玉餡子が出てきた。一人生活にとって、白玉餡子はほぼ三か月ぶりで嬉しかった。瑞泉寺に来て近くにお店がない分、助かる。いつまでもご健康で営んでいただきたく思います。