先日、突然急に奈良から来た先生を一日、鎌倉を案内した。鎌倉宮の駐車場に車を置き、覚園寺を訪ねた。覚園寺も駐車場があるが、この鎌倉の二階堂の住宅地を散歩がてらに歩くのが好きである。少し小ぶりの雨だが、気温が低く、暑さはほとんど感じられなかった。覚園寺を楽しんでいただき、次は鎌倉宮を参拝する。
鎌倉宮は建武の中興に尽力され、二十八歳と若くして命を奪われた護良親王の偉勲を後世に伝えることを望んだ明治天皇の勅命により、明治二年(1869)、親王が命を絶たれた東光寺跡に創建された。「鎌倉宮」の名も天皇が自ら命名された。大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)を祀ることから、別称、大塔宮(だいとうのみや)とも呼ばれている。
護良親王は延慶元年(1308)、後醍醐天皇の第一皇子として生まれた。十一歳で比叡山延暦寺梶井門跡の大塔(密教寺院の七堂のひとつ)に入室した事から「大塔宮」として称された。二十歳で点台座主になった。「太平記」によると武芸を好み、日頃から自ら鍛錬を積む極めて異例な座主であったという。
元弘元年(1331)の元寇の乱で、後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕の為、僧兵を率いて挙兵に呼応。しかし、計画は失敗し、後醍醐天皇は隠岐島に流された。護良親王は赤松則祐、村上義光らとともに十津川、吉野、熊野へと落ちるが、ひそかに命旨を発し反幕府勢力の結集を促し、二年にわたり幕府と闘い続けた。大塔宮は還俗して護良と名を変えて、楠木正成らと手を携えて反幕府軍を募り、各地の武士に決起を即した。その結果、足利尊氏や新田義貞らによって鎌倉幕府は滅び、後醍醐天皇は京へ戻って天皇親政を復活(建武の中興)、護良親王は征夷大将軍になった。
(写真:村上社)
しかし、その後、親王は足利尊氏や父の後醍醐天皇と対立。建武元年(1334)後醍醐天皇の命により清涼殿で捕らえられた。足利氏に身柄を預けられる事になり、鎌倉に送られ、東光寺の土牢に幽閉された。父後醍醐天皇との不和は、元弘の乱に際し、倒幕の綸旨(りんし)を出した天皇を差し置いて命旨を発したことに始まると言われている。そして、建武二年(1335)中先代の乱が起こる。北条時之(北条高時の遺子)の率いる北条氏の残党の攻撃を受け尊氏の弟の鎌倉別当、足利直義により、護良親王は殺害されてしまった。
(写真:護良親王土牢と御廟領:首塚)
東光寺は臨済宗の寺だった。創建については、承行三年(1209)、二階堂僥倖(政所執事)が創建したという説と、建久四年(1193)に源頼朝が造営した薬師堂がその前身と言う説がある。いつ廃寺になったかは分かっていない。鎌倉宮の鳥居をくぐり舞殿、本殿と続き、本殿右横に村上社(護良親王の忠臣)がある。本殿の裏手には、親王が幽閉されたと伝えられる土牢残されている。小雨が降っていて土牢まで上がることが危ないので境内を参拝するにとどめた。お皿を割って厄を祓う厄除け石がある(非常に喜ばれた)。境内の東北、明治元年(1868)に廃寺になった理智光寺跡に親王の墓がある。
鎌倉には鶴岡八幡宮と鎌倉宮がある。観光地として鶴岡八幡宮は有名であり、参拝の人々も多い。鎌倉宮は鎌倉幕府と相対した護良親王を祀り、違った面で古風な社である。鎌倉の人にどちらの神社が好きか聞くのは野暮な話である。ただ、私自身思うのは国体護持を祈る宗教間の違いが大きく左右すると思われる。来週はかなり暑くなるが、熱中症の予防対策で体を少しずつ暑さに慣らすため、瑞泉寺、護良親王の墓と荏柄神社を歩こうと思っている。
住所:鎌倉市二階堂一五四。 ☎ 0467-22-0318.。 交通鎌倉駅東口よりバス大塔宮行。