鶴岡八幡宮にある白旗神社は政治二年(1200)朝廷から「白旗大明神」の神号を賜り源頼朝を祭神に北条正子が創建したと伝わっている。明治十八年(1885)源実朝を祀る上宮西側にあった、柳営社と合祀され現在に移っており祭神は、源頼朝、実朝となった。
神奈川県を中心に東日本に七十社余り、御祭神は源頼朝または源氏の武将、そして源氏の氏神である八幡神が多数となっている。
今回、訪れたのは西御門にある白旗神社と源頼朝の墓である。このあたりを法華堂跡と呼ばれている。過去に源頼朝を祀る法華堂があったところで、鎌倉では鶴岡八幡宮、勝長寿寺、法華堂と崇敬を受けた寺社である。法華堂は文治元年(1191)に頼朝が奥州征伐の祈願として、伊豆山権現の専光房良遷に命じ、本尊を聖観音像とする持仏堂として建立された。持仏堂は頼朝死後、法華堂と呼ばれるようになる。法華堂とは天台宗の修行法華三昧をするためのお堂で、後に法華三昧は死者の冥福を祈るようになり、法華堂が墓標、廟として使われるようになった。源頼朝の法華堂はもともと現白旗神社の場所にあり、現在の多層塔のある所に移され、再び白旗神社に移されたようである。
白旗神社から石段を登り、山の中腹に多層塔の墓標がある。日本史に名を残す、最大の武将でありながら、質素な墓標である。頼朝の墓標の横から石段が有り、登ると平場となっている。平成十七年の調査で一辺が8.4メートルの正方形の三間堂があったと推測され、そこが義時の法華堂跡だと考えられる。「吾妻鏡」には、「故右大将家法華堂の東山上を墳墓となす」と義時の遺言により建立されたと記載されている。その跡地の右の階段を上ると、頼朝の家臣大江広元と、その子毛利季光、頼朝の子と言われる島津忠久の墓それぞれある。
法華堂は宝治合戦により三浦一族五百人が自答した場所である。江戸時代に入り、安永八年(1779)、頼朝の子孫を称した薩摩藩主島津重豪(しげひで)より勝長寿寺(頼朝が父実朝を供養するため建立した寺)が廃寺となるため多層塔を移したという。明治に入り神仏分離令により白旗神社と改称された。
今回、小町大路周辺から、宝戒寺と法華堂跡を歩いた。鎌倉幕府が執権政治により北条家の勢力を拡大させるため、頼朝以来の御家人を滅ぼして行き、また新田義貞により北条家が滅亡した。この鎌倉には、いくつもの凄惨な跡地と称されるところがある。両跡地にて、手を合わせて冥福を祈った。