鎌倉散策 宝戒寺 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 鎌倉市で天台宗の寺院は数少ない。鎌倉で一番古い寺とされている杉本寺と宝戒寺である。

白ハギが有名で初秋の境内一面に咲き誇り、「萩寺」として有名である。また、百八種の椿が十月下旬より翌年五月まで咲き続ける。春はしだれ梅、夏の百日紅も鮮やかに咲く。

 

宝戒寺 ほうかいじ  宗派、天台宗。 

山号寺号、金龍山釈満院円頓宝戒寺(きんりゅうざんしゃくまんいんえんどん)。

創建、建武二年(1335)。 開山、円観慧鎮慈威。 開基 後醍醐天皇。

本尊、子育経読地蔵大菩薩(こそだてきょうよみじぞうだいぼさつ)。 寺宝、本尊貞治四年(1365)京の仏師三條法印憲円作(国重文)脇建ての木造梵天、帝釈天立像。

 

 雨の降り続く梅雨の半ばの曇天の日を見計らって、宝戒寺を訪ねる。曇天の薄暗い日差しの中で、参道入り口にたどり着く。「北条執権邸旧跡の碑」が建っており、大きな一枚岩の八角形の敷石が本堂まで敷かれている。この季節は萩寺の面影はなく、暗い樹木の緑が北条高時の菩提を弔う寺として感じさせてくれる。正面に木々で覆われた本堂、横に太子堂、そして後年立てられた北条氏を供養する宝篋印塔(ほうきょういんとう:墓塔、供養塔)がある。

 北条義時が小町邸を作って以来、代々、北条家の屋敷があったと言われる。元弘三年(1333)五月二十二日、新田義貞の鎌倉攻めにより北条高時は東照寺において自刃(じじん)し北条家は滅亡し、鎌倉幕府は崩壊した。建武二年(1335)後醍醐天皇が北条高時の霊を慰めるため、また、国法的人材を養成修行せしめる道場として、足利尊氏に命じ北条高時屋敷跡に寺を建立し、宝戒寺と名付けた。開山の円観慧鎮慈威はここに円頓大戒(金剛宝戒)と天台密教の大法関東弘通の道場として戒檀院を置いた。

 足利尊氏は宝戒寺に対して、大住郡金目郷の半分を寺領として寄進した。室町時代を通じて、足利氏の保護が加えられた。宝戒寺の住持は毎年正月の十六日に鎌倉公方御所へ伺候している。円頓戒壇の寺として繁栄を維持していたが、享徳三年(1455)から始まった享徳の乱(鎌倉公方足利成氏(しげうじ)が関東管領上杉憲忠を暗殺したことから関東一円に広がり二十八年間続いた内乱)で足利成氏が下総古河へ下向により、康正元年(1455)その混乱の中で宝戒寺も破壊され、仏像経典類が多く散逸したという。

 文七年(1538)七堂伽藍が焼失し、江戸時代に入ってから天海大僧正が宝戒寺は関東における天台律宗の本寺であるため再建と保護を徳川家康に懇願したとされている。ここから、北条高時が自刃した東照寺跡、腹切りやぐらに行くのも近く、鎌倉幕府の終焉を感じさせてくれるだろう。