第2話「生麦事件〜明治維新へ」 | 道 〜心臓外科医 奈良原裕のブログ〜

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あの日がくるまで僕は人生のうわっ面しか追いかけてこなかった。医師となり心臓外科医となって、これまで何をしてこれから何をしていきたいのか。この道がどこで終わるのかはわからないけれど、向きたい方向に顔を向けて歩いていこうと思う。

「生麦事件~明治維新へ」





文久2年8月京都伏見で起こった薩摩藩尊攘過激派志士が鎮圧された寺田屋事件のすぐ5ヶ月後、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)において、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入したイギリス人を供頭の薩摩藩士が殺傷した事件が起こった。斬られたのはイギリス商人リチャードソン、斬った薩摩藩士は、奈良原 喜左衛門と言い、寺田屋事件の奈良原 喜八郎の兄であった。

生麦事件は、当時大きな政治問題となり、幕府、薩摩藩、イギリスのもつれは薩英戦争へとつながった。当時日本は尊皇攘夷運動が広まっていたが、薩摩はこの戦争により異国との圧倒的な軍事力の差に直面し攘夷論など非現実的であることを悟った。そして、薩英戦争後の紛争処理である講和交渉を通じて、薩摩はイギリスとの関係を深めていった。同じように攘夷を掲げていた長州も下関戦争などでの敗戦を通じて異国の力を知った。このような状況のなか両藩を結びつけ薩長同盟締結に坂本龍馬が尽力したのは有名である。薩長同盟締結となる下関での会談では、西郷隆盛や桂小五郎が有名だがこの場に奈良原 喜八郎も同席していたようだ。そして薩長同盟から起こった倒幕運動は、大政奉還を徳川幕府に断行させ、王政復古の大号令により約260年続いた徳川幕府は終焉を迎えた。その後、新政府が樹立し、日本の近代国家が幕を開けることになった。

奈良原 喜左衛門が放った一太刀が明治維新へとつながる。
心臓血管外科専門医のお祝いに贈られる日本刀に、
込められたその意味の持つ重さを、
僕は感じずにはいられなかった。