
1862年(文久2年)京都伏見の船宿「寺田屋」に集まっていた薩摩藩の尊攘過激派志士たちが鎮圧された事件。このとき藩主の(父の)島津久光の命令で鎮撫使として派遣されたのが、薬丸示顕流の使い手であった奈良原 喜八郎(のちの奈良原 繁)ら剣術に長けた9人の薩摩藩士。話し合いは決裂し、薩摩藩同士の壮絶な斬り合いとなった。この事件により久光は朝廷の信頼を得て発言権が増し、その名声は幕府までを屈服させ勅命をもって幕政改革を推進させた…

このとき奈良原 喜八郎が使った刀が、鹿児島歴史資料センター黎明館に展示されています。鹿児島出張の際に、黎明館を訪れ、自分の祖先が使ったと言われる刀を見てきました。刃こぼれの激しさはそのまま事件の壮絶さを表しているようでした。