『空想から科学へ』読書会⑦(まとめに代えて①) | kmhamのブログ

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マルクス・エンゲルス古典学習会 No.8         2023/10/31
エンゲルス著:『空想から科学へ』読書会⑦(まとめに代えて①)
英語版への序文(史的唯物論について)1892年(p95~p115) ①/②
・p95(反デユーリング論と本書の関係)
・p95この小冊子は1875年頃、ベルリン大学の私講師E・デューリング博士の社会主義理
論と社会改造計画に対する反撃の書として書かれた『反デユーリング論』の中から友人の
ポール・ラファルグ(当時フランスの下院議員)の求めに応じて、3章をまとめてパンフ
レットにしたものである。
・p97ラファルグは、これをフランス語に翻訳して1880年に『空想的社会主義と科学的
社会主義』という表題で出版したが、1883年にはドイツ語で出版された。このドイツ語
原本を基にして英語版が出された。これでこの小冊子は10カ国語で流布されることにな
った。これほど翻訳の多いものはなく、1848年の『共産党宣言』や『資本論』でさえ、
これに及ばない。
・98(本書は近代の資本の説明である。)
・本書に用いられた経済学的用語は、それが新語である限りマルクスの『資本論』の
英語版と同一である。われわれが「商品生産」と呼んでいるのは、物品が生産者の使用
の為ではなく、交換の目的で、即ち、使用価値としてではなく、商品として生産される
経済状態のことである。・・・それが十分な発展を遂げたのは、ただ資本主義的生産のもと
においてのみである。
・それは、生産手段の所有者たる資本家が、自己の労働力以外の一切の生産手段を奪われ
た人間、労働者を、賃金をもって雇い、その生産物の売値が彼の支出を上回る部分を着服
するような条件が整った時である。
・われわれは中世以降の工業生産の歴史を3期に分ける。(1)手工業。小親方手工業者が
少数の職人と徒弟をかかえ、ここでは労働者各人は完成品を生産する。(2)工場制手工業。
(マニュファクチュア)ここでは、1つの大作業場に多数の労働者が集められ、分業の
原理に従って完成品を生産する。労働者はただ部分的作業をするだけであり、従って生産
物はすべての人々手を順次通過した後はじめて完成される。(3)近代工業。ここでは、
生産物は動力で運転される機械によって生産され、労働者の仕事は機械装置の作業を監視
し調整することだけである。
・p99(われわれは唯物論であり、それはイギリス人が始めた。)
・あらゆる近代唯物論の本家本元はイギリスであり、その先祖はベーコンである。彼に
とっては自然科学が唯一の真の哲学であり、感覚の経験の上に立てられた物理学が自然科学
の最も主要部分である。アナクサゴラスとその元素同質論、デモクリトスとその原子論、
この両者が彼の典拠となっている。
・p100彼によれば、感覚は誤りのないもので、全ての認識の源泉である。すべての学問
は経験を基礎とし、それは感覚によって与えられた素材に合理的研究方法を適用してでき
るものだ。帰納、分析、比較、観察、実験、これが合理的研究方法の主要形態である。
唯物論の創設者ベーコンにあっては、唯物論はまだ多面的に発展する萌芽を含んでいた。
それは一方では物質は、感覚的な詩的な魅力を包んでいて、その微笑をもって全人類を
引きつけることができた。他方では、格言的な形のこの学説には、神学からもたらされた
矛盾の芽が出そうでもあった。
・p101(ホッブスの唯物論)
・ホッブスはベーコンの唯物論を体系づけた。感覚的知識はその詩的な華やかさを失い、
数学者の抽象的な経験となった。幾何学が科学の女王とされた。・・・唯物論は感覚的
存在ではなくなり、知的存在となった。そうすることで、知性の特色である首尾一貫性
をその結論はともかく貫徹したのである。
・ホッブスはベーコンの後継者として次のように論じている。「人間の知識は全て感覚に
よって与えられるとするなら、われわれの概念や観念は、現実の世界から、感覚的形態を
はぎとったその幻影である。哲学とはこうした幻影に名称を与えるだけのものだ。しかし
一方で、全ての観念の起源は感覚の世界にありと言いながら、他方で1つの言葉は1つの
言葉以上を意味するといっては、それは矛盾である。それなら、われわれの感覚によって
知られる実在物、一切の個体の外に、それとは別に、一般的性質の実在物があるといって
は、それも矛盾であろう。・・・物体、存在物、実体とはいえ、いずれは同一の実在の異名
である。思想と思惟するところの物質とは切り離すことはできない。この物質こそ、世に
行われているあらゆる変化の主体である。・・・」
・p102(ロックを通じてイギリスの唯物論は理神論となった。)
(ベーコン・ホッブス・ロック)
・ホッブスはベーコンを体系づけたが、全ての人間の知識は感覚的世界から生ずるという
ベーコンの根本的原理には立ち入って証拠を挙げなかった。それをなしたのはロックで
あった。(『人間悟性論』)・・・何にしても、実践的唯物論者にとっては、理神論は宗教から
解脱する近道以外の何物でもなかった。
(マルクス『神聖家族』8巻選集・第一巻dフランス唯物論に対する批判的戦闘p103~)
(フランス唯物論には2つの方向があって、1つはデカルトにその起源を発し、他はロック
にその起源を発している。後者は特にフランス的教養の一要素であり、直接に社会主義に
注いでいる。前者即ち、機械論的唯物論は、本来のフランス自然科学に流れ込んでいる。
2つの方向は発展の途上で交差している。・・・p104)
・p103(18世紀はフランス唯物論の世紀であった。)
・p103(19世紀イギリス人は迷信家である。)
・19世紀中頃、イギリスの上品な中流階級の宗教的頑迷さと愚昧さにはそこに居を定め
たすべての教養ある外国人を驚かした。しかし、イギリスはその後「開けて」きた。
1851年の博覧会はイギリスの島国的排外主義に弔鐘を鳴らした。サラダ油の輸入と普及
に伴って、宗教的事柄についても大陸の懐疑主義が普及した。しかし、不可知論は外国
産ではなく、疑いもなくイギリス産であった。
・p104不可知論の自然観は徹頭徹尾唯物論的である。全自然界には法則が支配していて
それに対して外からの作用は絶対に許されない。彼らはそれに加えて、我々の知っている
宇宙の彼方に、何らかの最高実在者がいるかいないか、それは確かめる方法も否定する
方法もない、という。
・p105今日、われわれの進化的宇宙観には、造物主または支配者をいれる余地はない。
また、現存の全世界と全く切り離された最高実力者というのも、言葉の矛盾だ、その上、
そうした言い方は宗教的な人々の感情をいわれなく侮辱する。
・p107(新カント派の不可知論)
・新カント派の不可知論は言う。物の性質を正しく知覚することは出来るかもしれないが
感覚的、ないし思惟的な過程では、「物自体」は把握できない。「物自体」はわれわれの
認識の彼方にある、と。これに対してヘーゲルはとうの昔に答えている。諸君が物の性質
を何もかも知ったとき、物自体が分かったことになる、と。
・科学の素晴らしい進歩によって、分かりにくかったものが次々に把握され、分析された
のである、それどころか再生産されるまでになった。いやしくも、我々が作りうるもの
をわれわれが認識しえないとは考えられない。
・p108彼が科学者であり、何かを知る限りでは、彼は唯物論者であるが、科学の拉致を
出て彼の知らない領域に入ると、彼は自己の無知を、ギリシャ語に翻訳して不可知論と
呼ぶのである。
・p109(私の史観も唯物論である。)
・史的唯物論とは、あらゆる重要な歴史的事件の窮極原因とその大きな原動力を、社会の
経済的発展のうちに求める史観である。生産と交換の方法の変化のうちに、またそれより
出てくる社会の異なった諸階級への分裂のうちに、さらにこれら諸階級の相互の闘争の
うちに求める史観である。
・p110(ブルジョアジーは封建制度を崩壊させた。)・・・イギリス人の宗教性について
・ヨーロッパが中世から抜け出てきた時には、都市の新興中流階級は革命的であった。
彼らは中世の封建的組織内部では既に一定の地位を闘いとっていたが、彼らの膨張力に
とってはその地位は、狭くなっていた。中流階級即ち、ブルジョアジーの自由な発展は
もはや封建制度を維持することを許さなかった。
・p110(ローマ教会の封建制はなかなか亡びなかった。)
・しかるに封建制度の国際的大中心地は、ローマのカトリック教会であり、この教会は
その内部にあらゆる争いを内蔵している封建西ヨーロッパの全体を一大政治組織に統一
してマホメット教諸国と分離派のギリシャ人とに対抗していた。この教会は封建制度を
神聖な聖列式の後光でつつみ、教会自身の位階制をも封建制に型どって組織していた。
・そして、彼ら自らが最も有力な封建領主であって、カトリック世界の領土の優に1/3
を領有していたのである。それゆえ、俗界の封建制を攻撃しようとすればまずもってこうした教会の聖なる中心組織が破壊されねばならなかったのである。
・p110(科学と宗教との争いは長かった。)
・中流階級が勃興するにつれて科学も大復興した。天文学、機械学、物理学、解剖学、
生理学の勉強が始まった。ブルジョアジーは、その工業生産の発展の為に、自然物の
物理的性質と自然力の活動様式を突き止める科学を必要とした。
・しかるに科学は、従来、教会の賤しい侍女であって、信仰によって定められた限界を
越えることは許されなかった。今や科学は教会に叛旗翻しブルジョアジーは科学を必要
としてこの叛逆に加担した。
・p111以上、新興中流が既成宗教と衝突すべき2点を上げただけだが、次の事は明らか
である。第一、ローマ教会の権勢に対する闘争に最も直接の利害をもった階級はブルジ
ョアジーであった。第二、封建制度に対する一切の闘争は、当時としては、宗教に扮装
しなければならず、何よりもまず、教会に向けられねばならなかった。
・そして、初めに反抗の声を上げたのは大学や都市の商人であったが、その声は、地方
の大衆の間に、即ち、自分自身の生存の為に精神上及び世俗上の封建領主と至る所で
闘争しなければならなかった農民の間に、力強い反響を見いだしたのである。
・(封建制度に対する三大戦争)
・ブルジョアジーの封建制度に対する闘いは長かったが、その頂点をなす3大決戦が
あった。
・p111(第一の革命、ドイツの宗教改革)
・第一は、ドイツの宗教改革である。ルターが教会に対してあげた叛逆に呼応して2つ
の反乱が生じた。1つは、1523年のフランツ・フォン・ジッキンゲンに率いられた下級
貴族の反乱であり、いま1つは、1525年の大農民戦争である。
・この時以来、この闘争は地方の諸侯と中央権力の争いに退化して、ドイツはその後の
200年間、ヨーロッパの活力ある政治的な国民の仲間から外れてしまった。かくして、
ルターの宗教改革は、新しい信条を作り出しはしたが、それは絶対王政に適合した宗教
であった。東北ドイツの農民は、ルター主義に改宗するや否や、自由民から農奴に転落
させられたのである。
・p112(カルヴィンの宗教改革の性質)
・しかし、ルターが失敗したところで、カルヴィンが成功した。彼の予定説は、商業世界
は競争で、そこでの成敗は個人の働きや智力にはよらない、彼自身の制御しえない諸事情
によるという事実を、宗教的に表現したものであった。これは経済の革命時代においては
すごく真実であった。この時は、旧来の商業上の通路や中心が全て新しいものにとって
代わられていた時であり、インドとアメリカが世界に開放されていた時であり、そして
最も神聖な経済上の信仰の的であった金銀の価値までも動揺し、崩壊し始めていた時で
あったからだ。
・また、カルヴィン教会の組織は全く民主的であり、共和的であった。既に神の王国が
共和化されてみれば、現世の王国が君主と司教と領主に従属していることができようか?
こうしてドイツのルター主義は諸侯に握られて従順な道具になったのに対し、カルヴィン
主義は、オランダでは共和国となり、イギリス、特にスコットランドでは強力な共和党を
打ちたてるに至った。
・p113(第二の革命、イギリスの名誉革命。)
・カルヴィン主義による動乱が起こったのは、イギリスであった。起こしたのは都市の
中流階級で、この闘いをやり抜いたのは地方農村の自営農民(ヨーマンリー)であった。
・ブルジョアジーの3大叛乱において実践的軍隊を農民が供給した事、その勝利後に、
勝利の経済的効果によって壊滅される階級もまた農民であった。クロムウエルの後100年
にして、イギリスの自営農民は、ほとんどその影を没した。いずれにしても、この自営
農民と都市の賤民要素がなければ、ブルジョアジーだけではあそこまで戦い抜けなかった
であろう。・・・1793年のフランスや1848年のドイツでもまさしくそうであった。
・p113(名誉革命の性質。)
・革命的活動のこうした行き過ぎには、不可避的な反動が続いたが、1689年の比較的小
さな事件で終わった。それをリベラルな史家は、「名誉革命」と名付けた。
・p114(それはブルジョアジーと旧封建地主との妥協であった。)
・この新しい出発点は、新興中流階級と旧来の封建大地主との妥協であった。後者は、
当時も今日も貴族と呼ばれている。幸いなことに、イギリスでは・・・封建的というよりは
ブルジョア的風習と傾向をもった全く新しい一団であった。彼らは、貨幣価値を熟知して
おり、小農民を放逐して代わりに羊を飼って、地代の増加を図った。ヘンリー8世は、
教会領を潰して大量にブルジョア新地主を創り出した。また、夥しい土地を没収して、
全くの成り上がり者にそれを分け与えることが17世紀全体を通じて行われたが、結果は
同様であった。
・その為、イギリスの「貴族」は、ヘンリー7世以来工業生産によって間接に利益を
得ようとした。その上、大地主の一部には、経済的、政治的理由から、金融及び産業
ブルジョアジーの指導者と協力しようとした。1689年(名誉革命)の妥協が簡単に成功
したのはこの為であった。金融と製造業と商業の中流階級の経済的利害関係を十分に配慮
するという条件で、「金と権」についての政治的利権のやりとりは、大土地所有家族に
任されていた。それ故、細事は別としても大局的には、貴族的寡頭政治は、彼ら自身の
経済繁栄が工業や商業の中流階級のそれと不可分に結びついていることを熟知していた
のである。
・p115(この妥協の為に宗教が利用された。)・・・以下、次ページへ。

 英語版への序文 ① 了