捨てられる教師!?(1/16) | sakoのブログ

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オワコン化した従来教育、捨てられる教師の末路


これからの時代に求められる教師像とはどのようなものなのでしょうか(写真:8×10/PIXTA)


AIの浸透によって、教師は淘汰されてしまうのか、それとも生き残っていけるのでしょうか。本稿では、学校改革プロデューサー・カリキュラムマネージャーである石川一郎氏の最新著書『捨てられる教師』より、教師の明暗をわける要素や、教師自身がこれからの世界を生き抜くうえで知っておくべきことを、ご紹介します。


いよいよ「大学全入時代」がやってくる

今、日本の学校教育は大きな変化の時を迎えています。特に2040年あたりまで、つまり今後20年弱の間に、いよいよ昭和・平成の名残は消失し、学校教育は真に新しい時代に突入することが予想されます。この変化のうねりの元となるのは、ある3つの事実です。


第1の事実は、少子化の加速です。もとより減少傾向にあった日本の出生数ですが、2015年では、まだ100万人を超えていました。


ところが2016年、統計を取り始めて以来初めて100万人を割ると、2019年には90万人を割り、2022年には80万人を割り……と、政府予想を超える速さで少子化が進んでいます。この急速な少子化の進行は、新型コロナウイルスのパンデミックで約3年もの間、他者との接触が忌避される日々が続いたことと無関係ではないでしょう。


ともあれ、子どもが減ることは教育事業が縮小することを意味します。特に大きな影響を受けるのは大学でしょう。2022年に生まれた子どもは77万0747人。大学への進学率は平均して60%ほどですから、単純計算で、2022年生まれの子どものうち大学進学するのは約46万人ーー。


さて、これが何を意味するか、おわかりでしょうか。出生数が100万人を超えていたころは60万人以上が大学進学していたものが、約46万人にまで落ち込む。


すると、医大などの一部の専科大学、東大・京大など難関国立大学、早慶上理、GMARCHの一部の学部までは入試による選抜が機能しても、それ以下の大学は「試験さえ受ければ誰でも入学できる」という事態になるでしょう。


つまり2022年生まれの子どもたちが17年後、高校を卒業する2040年、いわゆる「大学全入時代」が訪れると考えられるのです。それどころか定員割れを起こし、経営不振に陥った結果、自然淘汰される大学も出てくることが考えられます。


(出所)『捨てられる教師』より


学校は深刻な人材不足に陥っている

第2に、学校教師になる人が激減しているという事実があります。学校は、よく「ブラック職場」といわれます。


それもそのはずで、学校教師は、授業のほかに担任、生活指導や進路指導、保護者対応、職員会議、もろもろの書類作成、部活の顧問などなど、とにかく仕事が多いのです。その合間を縫って、担当教科の授業の準備をし、宿題を考え、テストを作り、採点するなどの仕事をこなさなくてはいけません。


それでも、教育に関心がある人ならば教師になるだろう、と思われるかもしれませんが、受け皿は学校だけではありません。テストの点を取らせることに関心がある人には大手予備校や塾、教育の仕組みづくりに関心がある人には教育事業を展開する民間企業に就職するという道があります。


しかも、これらのなかには学校教師よりもずっと高給なところも多く見られます。というわけで、教育に関心があり、かつ就職戦線を勝ち抜ける優秀な人ほど学校教師にならない。


こうして、本来ならば教育の中枢を担う機関であるはずの学校が、いわば人材のエアポケットになってしまっているのです。この事実はまた、日本の学校教育がなかなか根本的に変化しない理由にもなっています。


教育に関心があり、新しいアイデアのある人ほど、「学校ではないところ」で教育に関わろうとする。裏を返せば、旧来の価値観や手法のままでいい、学校に変化など必要ないとする保守的な人たちが学校に集まる傾向があるというわけです。


採用側である学校としても、今までの自分たちのやり方を否定されたくありません。となると熱い教育改革論をぶつけてくる人よりも、早々に自分たちの色に染まってくれそうな人のほうが好ましいので、いくら新しい人材を採用しても、一向に変化は起こらない。それどころか旧来の価値観や手法が固定化し、強化されやすいのです。


かくして、世の中は刻一刻と変化しているというのに、学校だけは取り残されたまま日本国内のガラパゴスと化していることは否めません。


あるべき「学校の形」が変わっている

そして第3の事実として挙げなくてはいけないのが、優れたデジタルツールの登場により、学びの形が変化を求められていることです。こういうと、2022年に日本でもリリースされて話題をさらったChatGPTなど、生成AIを思い浮べるかもしれませんが、デジタルツールが教育に与える影響は、今に始まったことてはありません。Google検索、もっといえばパソコンとインターネットが普及したころから、ずっと起きてきたことです。


かつては「知識があること」自体に価値がありました。ところが、その価値はパソコン、インターネット、Google検索の登場以来、どんどん薄れてきました。本から知識を得て記憶しておかなくても、キーワードひとつ打ち込むだけで知識を得られるからです。わからないことに出会ったら、Googleで検索すればいい。「あれって何だっけ?」と思うたびにGoogle検索で確認すればいい。


この発想は、手のひらサイズのパソコンともいえるスマートフォンの普及によって、いっそう強く人々に根付きました。こうして「知識があること」自体の価値が薄れるのと引き換えに、価値が高まってきたのは思考力や想像力、創造性です。知識を蓄えることてはなく、知識を使って考え、想像し、創造する能力が重んじられるようになりました。


世の中のニーズが変われば、それに即して学校教育も変化しなくてはいけません。優れたデジタルツールの登場により、学びの形が変化を求められているという第3の事実とは、つまり、知識の詰め込みから脱し、生徒の思考力や想像力、創造性を伸ばす学校教育へと舵を切る必要性につながっているというわけです。


Z世代が親になるとき、昭和の教育は終わる

さて前項でお話しした3つの事実を並べてみると、従来の学校教育は、すでに詰んでいる、オワコン化しているという結論にならざるをえません。授業で知識を受ける。その知識の習熟度を計るためにテストをする。採点する。評価する。


そんな昭和・平成時代にどっぷり浸かったままの学校教育では、これからの時代を生きていく生徒たちの能力を伸ばすことはできないでしょう。


そして、生徒たちの能力を伸ばすことができない教師は、早晩、捨てられるーーお役御免となって仕事を失うことになるのは目に見えています。この潮流は、おそらく2030年代から2040年代にひとつのピークを迎え、さらに現在の20代、「Z世代」と呼ばれる人たちが親になるころから、いっそう大きな渦になっていくでしょう。


というのも、現在の30代前半の世代、いわゆる「ゆとり世代」ではまだ見られる昭和・平成の価値観の影響が、1990年代半ば以降に生まれ、今では10〜20代中盤になっている世代、いわゆる「Z世代」にはまったく見られないからです。


つまり昭和・平成の価値観が通用しない世代が親になるとき、長く続いてきた昭和・平成の学校教育は「本当の終わり」を迎えると考えられます。「終わり」と聞いてネガティブな印象を抱かれたかもしれません。


しかし大学全入時代の到来によって受験戦争がなくなり、従来の定型的な教育から思考力や想像力、創造性を育む方向への変容が求められていること自体は、未来ある子どもたちにとって、非常に好ましい変化です。昭和・平成の学校教育の終焉は、長らく叫ばれつつも実現してこなかった「一人ひとりの個性を生かし、伸ばし、輝かせる教育」の始まりとなるチャンスなのです。


では、そんな世代交代に伴う価値観の変化や社会的要請に応えるために、日本の学校教育は、どう具体的に変わっていったらいいのでしょうか。すでに詰んでいるに等しい状況でも、そこから立て直していく道はあるか。もちろん、道はあります。


(出所)『捨てられる教師』より


かつてはGoogle検索、昨今では生成AIと、テクノロジーの進化により便利なツールが登場するたびに、その是非が教育界では議論されてきました。教育に携わる者として最新テクノロジーの何たるかを知り、いかに活用するか、あるいはいかに警戒するかを議論することは、たしかに重要です。


しかし、どれほどテクノロジーが発達しようとも、現代と未来の教育において本質的に重要なことは変わらないのではないでしょうか。


それは、未来ある子どもたちが、それぞれの個性を損なわれることなく探究心旺盛に学び、それぞれの特質に基づいた能力を花開かせる手伝いをすることです。そんな学校教育を叶えるために、最新テクノロジーをどう活用していったらいいのか。そういう議論ならば大いに交わし、筋のよいアイデアは積極的に実装していくべきでしょう。そのために、ここではまず、先に述べた教育の本質についてもう少し深く考えておきたいと思います。


学習指導要領の変遷にも見られるように、学校教育の目的は時代ごとに移り変わってきました。たとえば戦後間のないころには「基礎学力」が重んじられ、そこから、いわゆる画一的な「詰め込み教育」が始まりました。


それが現代では、知識の詰め込みよりも「主体的・対話的で深い学び」が重んじられるようになっています。生徒たちの主体性に重きを置く「アクティブ・ラーニング」という概念も生まれました。


かつては日本の社会・経済復興を支える人材創出のため、足並み揃えてテストで点数を取らせることに重きが置かれていました。


しかし今では、社会がより多様化するなかで、一人ひとりの特性や得意分野を伸ばすことが重視されるようになってきている、そう言ってもいいでしょう。そこで近年、教育のプロセスの指標として「ブルーム・タキソノミー」という分類法が注目されています。


「思考で遊べる授業」へ

ブルーム・タキソノミーとは、1973年にアメリカの認知心理学者ベンジャミン・ブルームの研究チームによって作成されました。その改訂版(2001年版)では図のように、「知識」「理解」に始まり「評価」に至る教育のプロセスが分類されています。




日本の従来の学校教育は、「知識」「理解」「応用」までをカバーしてきました。授けられた知識を正確に理解し、それを応用して物事を推測する能力を身につけさせるところまでが学校教育の役割だった。「右に倣え、前に倣え」式で経済を発展させていた一昔前ならば、それで十分でした。


しかし今は違います。「知識」「理解」「応用」のうえで物事を分類、構造的に理解し、予測を立てる「分析」の能力。そのうえで物事のさまざまな要素を集めてきて編集し、そこから仮説を立てて新しいことを構想し、自分なりの価値観や哲学、信念をもって自己決定を下す「評価」の能力。さらに何かを生み出す「創造」の能力ーー。


「知識」「理解」「応用」までは正解のある低次思考である一方、「分析」「評価」「創造」は正解のない高次思考です。正解のない問いについて、知識を基に論理的、多角的に迫り、個別・具体的な認知とメタ的・俯瞰的認知を行き来しながら、最終的には自分軸に従って決定を下し、新しい価値などを創造する。


こんなふうに、思考を自由に遊ばせ、新しい価値を創造する能力がなくては、これからの世の中、社会の一員として各々の個性や才能を発揮しながら生き抜いていくことはできないでしょう。


つまり学校教育は、もはや「知識」「理解」「応用」にとどまらず、生徒たちが「分析」「評価」「創造」という基礎体力を身につける手伝いができるよう変化する必要があるのです。


知識を詰め込むだけでなく、知識を基に自由に思考する。低次思考を高次思考につなげ、自分なりに決定を下したり創造したりできる術を教えるということです。


ところが現状、多くの学校教育はいまだに「知識」「理解」「応用」止まりにもかかわらず、社会に出たとたん「分析」「評価」「創造」の能力が求められます。若い人たちからすれば、今までほとんど訓練してこなかったことを急に求められるという理不尽な状況が生まれているわけです。この学校教育と実社会のギャップを、早く埋めなくてはいけません。


(石川一郎:カリキュラムアドバイザー/21世紀型教育機構理事)


https://news.livedoor.com/article/detail/25671221/


学校の先生ってホントに大変!

これが褒め言葉になるか

皮肉を込めた言葉になるか…