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■本邦初の電子書籍レビュー

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こんにちは。



現代の韓国人の歴史感というのは、檀君神話などで形造られていますが、そのプロトタイプは、実はわが大日本帝国陸軍による満州・朝鮮併合の情報啓蒙の遺物でもあります。



もはや日本では大日本帝国は忘れられた存在ですが、



この幻影は、かの半島に色濃く残っています。



しかし、この『契丹古伝』(日韓正宗遡源)は単なる「偽書」とは思えないほど示唆に富んでいて、その後の神道系の宗教団体にも少なからず影響を与えたようですし、
戦後一世を風靡した江上波夫の騎馬民族説=応神は扶余の辰王であるという説にも影を投げかけていると思えます。


浜名ー広部ラインは当時として第一級の知性であったことは、疑いもなく、



大日本帝国が彼らを利用したごとく、彼らもまた、大日本帝国を利用したのではないか?



とも思えます。







日露戦争中の明治38年、鴨緑江軍の兵站経理部長として奉天郊外のラマ教寺院に駐屯中の浜名寛祐は、広部精という博識の軍人から奇妙な巻物を見せられた。


もとはある古陵墓より出土した秘物であり、兵禍をおそれて移動したのちに、同寺院に厳重に保管するべく託されたものであるという。



これを書写した浜名寛祐は十年の歳月をかけて研究し、日韓古語の研究からその解読に成功し、大正15年に『契丹古伝』(日韓正宗遡源)を発表した。



『契丹古伝』は、10世紀に東丹国(契丹の分国)の耶律羽之によって撰録された漢文体の史書で、『耶馬駘記』『氏質都札』『西征頌疏』『神統志』『辰殷大記』『洲鮮記』など、幻の渤海史料によって構成されていた。



そのため固有名詞の音借表記が契丹音によるべきか、渤海音によるべきか同定が困難であったが、古代日本語による解読を許容すると推定される部分もあり、古代においては東アジア全域に共通する言語圏が存在したことが想定される。



浜名によれば、『契丹古伝』はスサノオ尊と同定しうる神祖がコマカケとよばれる天の使いである鶏に乗って、聖地・白頭山に降臨したという神話を核心とし、
シウカラ(東大神族)とよばれたその末裔たちが韓・満洲・日本の3大民族の祖として大陸に雄飛したことを伝える。



古代中国の尭・舜・殷はこのシウカラ系の国家であったが、「海漠象変」と表現される天変地異とともにシウカラ族は没落し、西族(漢民族)によって中原を追われる。



『契丹古伝』によれば、のちに東夷とよばれるようになる日・韓・満民族こそが中国大陸に超古代王朝を築いた先住民であり、契丹王朝もその末裔であった。



■浜名の後ろには渋沢男爵の資金援助があったようですね。国家プロジェクトに近いものと想像できます。




日本資本主義の父・渋沢栄一日記



昭和2年3月8日 浜名寛祐氏来り日韓正宗溯源ヲ著作セシ由ニテ其成本ヲ示シ、且、賛助ヲ請ハル、即チ同意シテ成本壱百部引受ノ事ヲ答へ成本次第其代価支出ノ事ヲ約ス



【濱名寛祐】



 元治1・5・5生-昭和13・2・23没

 大正2・5・8 主計監(少将相当官)

 明治39・2・23 第十二師団経理部長

 大正1・9・28 近衛師団経理部長

   2・5・8 千住製絨所長

   3・5・11 関東都督府経理部長

   4・2・15 待命

   4・5・1 予備



濱名は、日露戦争・鴨緑江軍兵站経理部長時代奉天郊外の黄寺で廣部精より禁断の書『契丹古伝』を見せられる。広部は陸軍の資金援助で活動していた諜報ですね。



【廣部精】



 安政元(1854)年7月11日 上総国請西藩士廣部周助の三男として生まれる。

 明治8年 東京尾張町に日清社を創設し、漢学と中国語を教育。

 明治10年12月 日清社を閉じる。その後、中村正直の同心社へ移り、漢学と中国語を教える。

 明治12年6月から13年8月まで 『亜細亜言語集』第1巻~第7巻刊行

 明治14年8月 陸軍四等出仕に任じ、陸軍省会計局に出仕。

 明治16年2月10日 陸軍会計軍吏補に登用。

 明治17年7月 中部検閲使監軍部長の属員

 明治19年3月 麻布歩兵第三連隊第二大隊会計官に転じる。

 明治20年4月 官制改革によって陸軍二等軍吏となる。

 明治23年 陸軍経理学校教官に補せられる。

 明治25年11月 一等軍吏に昇進し、更に経理学校副官に補せられる。

 明治30年7月 予備役編入



 明治38年3月4日 日露戦役の動員召集に方り、留守第一師団経理部附となり、次で宇都宮第十四師団に転じる。

 明治38年7月 大連に上陸戦務に服する。

 明治38年10月31日 同日付け辞令を以て鴨緑江軍兵站監部経理部員に転補

 明治39年2月 凱旋



 明治41年6月 大隈重信、市村瓚次郎、渋沢栄一、島田三郎、矢野文雄らとともに孔子教会を設立し、評議員となる。



 明治42年8月15日 没







■現代韓国人のメンタリティの父。



【契丹古伝1/3期間限定PDF】



不定期に注釈を連載していこうと思います。




検索機に出てこない情報を。








↑5月23日(水)【創作】秘境列島24 発信終了。



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1 名前:日本@名無史さん 2013/04/21(日) 12:12:22.42

旧唐書日本伝

日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。

あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。

あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。



この謎を考えてみよう。




4 名前:日本@名無史さん :2013/04/22(月) 13:48:53.57

倭国は滅びたが倭人は残った。

そして中世の倭寇につながる。




5 名前:日本@名無史さん :2013/04/23(火) 13:46:02.91

日本は倭国に附庸していた東の倭種。




6 名前:日本@名無史さん :2013/04/23(火) 15:28:12.19

は?




7 名前:日本@名無史さん :2013/04/23(火) 22:00:41.11

ほ?




8 名前:日本@名無史さん :2013/04/24(水) 03:13:53.55

田母神俊雄「駅などの中国語、韓国語表示を止めろ!ここは日本だ!」



なんかおかしくない?



「駅などの中国語、韓国語表示を止めろ!ここは日本だ!」ではなくて

「駅などの中国語、韓国語表示を止めろ!ここは倭国だ!」でないと

意味が通じない。



もともと「日本」と云う言葉は半島の人が最初に云い始めた言葉。

日本列島には「倭国」と云う別の国の名前がありました。



田母神俊雄氏にはこれからは「日本」では無くて

「倭国」で発言して欲しい。



  なんでも鑑定団 愛のエメラルド




9 名前:日本@名無史さん :2013/04/24(水) 06:17:10.53

倭国=近江王朝まで

日本=天武朝以降かなあ。



壬申の乱は実は明治維新以上の革命で

日本書記つうのは、ほとんどその弁明のために

書かれているかも。





10 名前:日本@名無史さん :2013/04/24(水) 08:49:56.76

白村江で九州倭国は滅びた。

天智の日本が後を継いだのだろう。




11 名前:日本@名無史さん :2013/04/25(木) 08:27:50.33

>>1

二番目が正解というだけの話。たいした話じゃないよ。



「倭国」から「日本」へ


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%9B%BD




12 名前:日本@名無史さん :2013/04/25(木) 08:36:04.57

7世紀後半から8世紀前半に国号、年号も含め、

大きな変化が起こっている。



ここで政権が変わった可能性は高い。



ちなみに、最古の木簡は太宰府の周辺で発見されている。








13 名前:日本@名無史さん :2013/04/25(木) 11:51:21.22

最後の倭王は筑紫君薩夜麻。




引用元



1 :日本@名無史さん:2013/03/10(日) 05:02:17.42

古代朝鮮半島南端は倭国の属領であったのでしょうか?




2 :日本@名無史さん:2013/03/10(日) 06:15:42.09

倭人が沢山住んでいた地域




3 :日本@名無史さん:2013/03/10(日) 07:21:32.17

倭人が侵略したのだろう




118 :日本@名無史さん:2013/04/11(木) 06:09:28.89

マジレスしてみる。



半島南端の、一種の出島と言うか、

倭人居留地、商業地区みたいなもののではないかと思ってる。




狗邪韓国つう「倭人国」があったとしても

その成れの果てつう可能性も。









倭人つうか弥生人が江南地方から日本に来る途中、

半島南部に一度吹き溜まったはず。

その名残が日本府だろう。



むろん日本府なんて漢字はあとからつけたもので、

当時はもっとショボい呼び方だったろう。



247 :日本@名無史さん:2013/04/15(月) 05:43:24.36

弥生人の原郷が大陸江南地方ってのが定説化している。

弥生人が西日本に渡来するにあたって、

山東半島や朝鮮半島は確実に通過している。

朝鮮廻りの集団が、一度半島南端に吹きだまったとしても

不思議はない。



その「ふきだまり」が狗邪韓国であり、

のちの「日本府」と呼ばれた倭人居留地ではなかったのかな。



249 :日本@名無史さん:2013/04/15(月) 08:59:32.21

>>247

狗邪韓国についてはその通りだと思う。

だがそのなかで金官加羅がヤマト政権にとって特別だったのはなぜだろう。

欽明が「任那を建てよ」「任那は棟梁ぞ」というときの任那は、その他の任那

を除いた金官加羅のみを指していると思う。




250 :日本@名無史さん:2013/04/15(月) 10:21:19.41

任那が滅んだ欽明天皇の時代なら、むしろ広義の任那を指してると思う。




251 :日本@名無史さん:2013/04/15(月) 10:46:13.18

>>249

悪意のある書き方だなw >「任那は棟梁ぞ」

「且夫任那者、爲爾國之棟梁。」

任那は汝の国(百済)の棟梁だと欽明天皇は言ってるんだろう




引用元

こんにちは。


ここのところ、オウム真理教のニュースと、AKB48の過去の総選挙動画を見直していることが多くて、


ブログの更新も滞りがちです。


メルマガだけはなんとか出し続けていますが、


すみません^^


「出頭考えたができなかった」=求婚で本名打ち明けられる-菊地容疑者かくまった男


元オウム真理教信者菊地直子容疑者(40)をかくまっていたとして逮捕された自称会社員高橋寛人容疑者(41)が「(潜伏中に)2人で出頭しようと思ったが、


できなかった」
などと供述していることが4日、捜査関係者への取材で分かった。


捜査関係者によると、高橋容疑者は2005年ごろに菊地容疑者と知り合い、約4年間、東京都町田市のアパートで同居していたと供述。


「何度もプロポーズしたが断られ、理由を聞くと『私の名前は本当は菊地という』と言われた。冗談で『オウムの菊地?』と聞いたら『はい』と答えた」という。
(2012/06/05-00:15)


どんな気持ちでしょうかね。「冗談」で聞いたら「はい」と言われたら、


まあ、やったことは同情の余地のないことですし、罪は正当に報わなければならないと思いますが、


難しいですね、特にこの男の人。


理想的には、説得して二人で出頭すべきなんでしょうが、実際、かかわり方によっては無期懲役とか死刑まであるという罪の場合、


「償ってやり直す」という選択にならないことも考えられるわけで、


実際に自分ならどうするかと考えても、おそらく自分から出頭はしなかいだろうなぁ、と思います。


彼女が「出頭したい」といわない限りね。


ただ、ずっと逃げとおすというのは、凄いエネルギーが必要でしょうから、どこかで疲れてしまいそうです。









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こんにちは。


森本敏先生が防衛大臣ですか。石破茂氏との討論は、さぞオタッキーで面白いものになりそうですね^^


さて、


長い間、日本の美意識の最たるものは、わび・さび(侘・寂)であるとされてきました。一般的には、質素で静かなものを指す言葉です。


WIKIによれば、


侘(わび)とは、動詞「わぶ」の名詞形で、その意味は、形容詞「わびしい」から容易に理解されるように「立派な状態に対する劣った状態」となる。


転じては「粗末な様子」、あるいは「簡素な様子」を意味している。


もっと端的にいえば「貧しい様子」「貧乏」ということになろうか。


本来は良い概念ではなかったが、禅宗の影響などもあってこれが積極的に評価され、美意識の中にとりこまれていった。


寂(さび)は動詞「さぶ」の名詞形で、本来は時間の経過によって劣化した様子(経年変化)を意味している。


転じて漢字の「寂」が当てられ、人がいなくなって静かな状態を表すようになった。


同様に金属の表面に現れた「さび」には、漢字の「錆」が当てられている。


ということですが、


ここには評価基準としての「粋」というやせ我慢の要素が対になっています。


わび・さびの評価には粋の後押しが必要です。


高齢化、縮小化、固定化の流れの今、必要なものは、この流れではなく、元来日本にあったもう一つの美の流れ、


同じく「粋」を評価基準としての、


ざれ、ふざけではないか?


なんてひらめきました。


「戯れ」は古くは11世紀初めころからの猿楽の芸態の一つとして文献にあらわれていて、空戯(そらざれ)(ふざけごと)を弄する京童の姿がおもしろおかしく演じられて笑いを呼んだということですが、


もともと、「洒落る」の語源は「戯れる」であって、まあ機転がきいた会話とかおしゃれなことですね。


もっと古くは、たわむれる、ふざけるの「サレル・サル」「猿」の語源でもあるということです。


ふざけるは、「巫山戯る」と書いて、戯言の一種。


巫山は中国の険しい山で、その山でざれよう(あそぶ)とするのはたわけ(バカ)のやることであるというような意味合いらしいですが、


静的な経年変化の中に「美」を見出す「わび・さび」という概念は、平安・平穏・もののあわれなどという日本の美意識を表す文化であることは認め、評価しますけど、


これは究極的には人の手の及ばない「自然崇拝」の一種じゃないのでしょうか。


人間が積極的に関与して現状にコミットする方法としての「ざれ・ふざけ」の方が、なにやら得体のしれない破壊的なエネルギーを持ちうるものであって、


ここに「粋」を感じることの方が多いですね、最近。


幕末、閉塞した社会の中で大衆の不満は浮世絵のグロテスクさに反映されますが、


結局、次の時代は「わび・さび」から起こったものでは無く、「ざれ・ふざけ」から始動した、とも思えます。









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