親鸞聖人が越後に流罪となったおり愚禿釈親鸞を名乗ったことについて | 酒井カロウのおそまつくん春日記

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日常生活の気付いたことなどを記事にしてご紹介します。宜しくお願いします。

 これはあくまで私見です。一応断っておきます。夜分すみません。

世間の人は、私を含め他人を上下関係でみてしまいます。

これが我見身見の具体的事例です。ほかにもありますけれど。

 もっともいやらしい先入観のある判断です。人の判断を自分に都合の良いように判断しているわけです。むしろ自分の判断ではなく、狭い世間での評判をもとに他人にレッテルをはっているのです。年上か年下か。財力や権力や地位や名誉があるか否か。あるいは結婚をしているか。子供や親はいるか。学業はどうだったか。どんな職業かいろいろな判断のもと、他人に白黒つけているのです。

 なんといやらしい見方なのでしょう。

 それから、他人からあからさまに馬鹿にされると、もう瞬間的に怒りの感情がわくのは、自分は愚か者ではないと思っているからです。むしろ、自分こそ一等えらいと心のどこかで思っているのです。

 本当は、人間は知恵があるかしれませんが、馬とシカと同じ動物、獣にほかなりません。

人間は 獣、動物より同じかそれ以下の存在なのかもしれません。それは動物をくっているからです。人間からすれば馬やシカはおろかに思われるかもしれませんが、進化の過程からすれば馬やシカの方が先輩のようですし、同じように道理のよって生かされているのです。

 それより、本当の智慧があるのは阿弥陀しかおりませんのに

人間の住宅地に熊やイノシシが出てきて人間を襲ったといって銃で殺して、対策を打っているのです。

 本当は、その人、人間そのものが愚かであると自覚できているならば、他人にただ馬鹿にされたぐらいで怒る必要はないです。

 理由は人間の上下関係がその人の生きる意味に全く影響しないからです。明日は消えていくかもしれない身ですから。

 そんなわけですから、他人からゆえなく意地悪されたと嘆いている場合ではないのです。人間は無駄な殺戮を繰り返しているし、色々なにおいもするでしょうし、明日命消えるかもしれないのに、明日大金が手に入ることを願って必死になっています。

 その意味で、大変な愚か者に違いはありません。明日命絶えるかもしれないのに自分が正しい、金持ち、頭いい、自分が偉いとか毎日、表現していのは、愚かものと気付きもしてないのです。あるいは、すぐに忘れてしまいます。だから、わかりやすいように、親鸞聖人は、自らぐとくといわれたのではないでしょうか。

 長文になり、ごめん下さい。