言いにくい事を書きます。
他の生き物を平等に扱う事という思想は、仏法において、生きとし生けるものは殺してはならないという釈尊が言ったとする言葉で表されていると思います。
これを拡大解釈しますと、生き物は等しく平等ということになります。
ところが、人間は他の生物を食べなければ生きていけません。
仏教なら、植物ならよいことになっていました。
しかし、植物に自己の意志や、個体の独自性があるかどうか私は説明できませんが、食べられる方の立場を考えてみたことが、ありますか。
私が、このような矛盾に最初に気付いたのは、ポパイの大好物が缶詰にされたホウレンソウだったからと思います。
ポパイの両腕の隆々な盛り上がりは、西洋の肉料理やウェイトトレーニングより、ホウレンソソウをかかさず食べていたからのように表現されていたのです。
ホウレンソウからしてみれば、人間から育てられたからとて、ある日突然、収穫され、生であってもゆでられても、特定の人間の胃を満たすために生きてきた訳ではありませんね。
人間の生の不条理性以前に生き物全体の生死の不条理性が説かれているわけです。
三世に渡る全ての生命、生命のみならず、全てのもののおかげで生きているのですよといわれているのです。
いついなくなっても不思議ではないのですから、感謝しなければなりません。一体感謝すべき対象とは何ですかといえば、それは、真宗によれば、大宇宙におわします諸仏の中で全ての道理を見通す事の出来るのは阿弥陀だと言い切られております。
釈尊の前にも後にも阿弥陀が仏になったのは、全ての人を救う為にすべての人をずっと見守ってくれると約束したのは阿弥陀仏以外にはそんざいしないのです。
それを忘れて、目の前の金や名誉や地位や権力を争うのは本当に哀れな事だと主張されています。
これは、生きることに一生懸命だと生きていることが一大事だと何回も説明されてもすぐに忘れてしまいます。人生の目的が人生の手段と置き換わって分からなくなってしまっているのです。