では、ノストラダムスの解説に戻ろう。
ノストラダムスの第3巻50番の詩を解説している。
大都市の共和政体は
大変な強情さで同意したがらないだろう、
王が喇叭手 〔らっぱしゅ〕 を通じて外に出るよう命じたことに。
壁に梯子、都市は後悔する。
(ノストラダムスの大事典の訳)
「その3」までの説明で、この詩は、
再臨(1999年の天使の地球復帰失敗)と
携挙(天使は2017年の7月に携挙=個人救済をしたが、これに応じた義人はごく少数だった)
について預言されている、と解釈した。
大都市の共和政体は
大変な強情さで同意したがらないだろう、
これは、地球人が古い常識に縛られて、預言書の真意を理解できなかった、
つまり、天使の説得に応じなかった、
ということを示している。
再臨の場合は、「地球人は全体として天使を呼ばなかった」と考え、
携挙の場合は、「天使が携挙を呼び掛けても、それに応じた義人はほとんどいなかった=いたがごく少数だった」
という意味だと解釈したのである。
>都市は後悔する
その結果、地上に残された人達は艱難が始まってから、
「ああ、俺達はせっかく天使がくれた救済を逃してしまったんだ」
と気がついて後悔する、というのだ。
この詩は再臨と携挙の二重預言になっているとはいえ、この仕組みが解ると比較的理解し易い詩だ。
だが、4行目に「壁に梯子」という言葉がある。
この言葉が結構難しい。
解ってしまえば「ああ、そうか」と合点できるのだが、これを知らない人に説明するのは結構大変である。
かなり専門的に細かくなってしまうので退屈する人もいるかもしれないが、この詩に取り掛かってしまい、「この詩は完全に説明しよう」となってしまったので続けるしかない。
まあ、理解できれば非常に深くて面白い話なのだが。
さて、この「壁に梯子」という意味、預言的象徴的意味については、「聖書の中のある記述が伏線になっている」
とヒントを出し、更に、それがどこなのか、も出した。
それは、
>2:15そこでラハブは綱をもって彼らを窓からつりおろした。その家が町の城壁の上に建っていて、彼女はその城壁の上に住んでいたからである。
という文なのだが、これの出典は書かなかった。
私の以前の本を読んで理解している人ならば、「ああ、あそこか」と解り、この聖句とノストラダムスの言葉の関係、その意図も解るだろう、と思ったからだ。
この聖句は「ヨシュア記」という旧約聖書の中にある書にある。
聖書に詳しい人か、私の以前の本を読んでいた人なら「ラハブ」という名が出てくるので「ああ、ヨシュア記の中の一節か」
と解っただろう。
だが、それでもこのヨシュア記の聖句と「壁に梯子」が結びつかないかもしれない。
「このヨシュア記の中の文には「壁に梯子」とは書かれてないじゃないか?」
と思うかもしれないからだ。
まず、それを説明しよう。
ノストラダムスの「壁」と訳されている mur という語は壁という意味もあるが、正確に言うと「城壁」を意味している。
城壁とは、中世の町の外側の境界を一周囲っている壁である。
これは、
「町の中に外敵が侵入してこないように町を取り囲んで造られた壁」であり、市民にとっての「防衛、防御、ディフェンス」の象徴である。
だが、それでも、
「まあ、このヨシュア記の聖句の中には確かに『城壁』という語はあるけど『梯子、はしご』という語は出てこないじゃないの?」
と思うかもしれない。
それも説明しなければならない。
>そこでラハブは綱をもって彼らを窓からつりおろした。
とある。
彼らというのは、「ヨシュアがエリコの町を偵察するために派遣した二人の斥候=スパイ」である。
ラハブというのはエリコに住んでいた遊女で、この二人の若者をかくまい、町から逃がそうとした。
エリコの王がこの二人の若者を捕えようとしたからだ。
では、何故ラハブが危険を冒してまでもこの二人の若者をかくまい助けたのか?
というと、ラハブは、この二人の若者の正体を知っていて、この町のその後の運命、未来が解ったからだ。
これが携挙の予型になってる。
つまり、ラハブというのは「携挙された義人の予型」なのである。
ラハブの家は城壁の上に建てられていた。
それで、ラハブは追っ手をごまかしてから二人の若者を城壁の外に降ろす手伝いをしてあげたのだ。
この情景を想像してみよう。
これは日本語訳、あるいは原典の問題もあるかもしれないが、どういう情景だったのだろうか?
それを絵画にしたものがある。
http://canalize.jp/4793.html
これは、「ラハブはただ一本の太い縄を垂らしてあげて、それを握って二人の若者は城壁を降りた」
と想像したようだが、これはちょっと危険である。手を離したら落ちてしまう。
城壁はかなり高そうだ。
それに、日本語訳では縄ではなくて、網と書かれてある。
縄なら「一本のロープを垂らした」でいいのかもしれないが、縄と網では違う。
私はこれは、実際には(とは言ってもこれは史実ではなくて預言的作り話なのだが)
ラハブは「縄梯子、網梯子」を垂らしたのではないか?
と考える。
「縄梯子、網梯子」を「網」と書いたのではないか?
と考えた方が適切だと考えられる。
「網」であっても、網なら足も掛けられるので一本の縄よりも降り易いし安全だ。
ラハブの家は城壁の上にあった。
その窓には緊急脱出用の網(網梯子)が固定されていて普段はぐるぐる巻かれていた。
ラハブはその縄梯子をほどいて窓から下した。
その縄梯子を伝わって二人の若者は城壁の外に降りて、エリコの町から脱出した、
と考えればよい。
あるいは、「緊急脱出用の網梯子が設置されていた」、というのが考え難ければ、「家の屋上には食料や油を入れてある甕、瓶があり、鳥に中身を取られないようにするために網が被せてあった」
と考えて、「結構丈夫で大きい網だったので、その一端をしっかりと固定しておいて窓から垂らして網梯子として使った」、と考えてもよい。
これならありそうだ。
どうであれ、この聖句の「網」を「網梯子~梯子」と考えても不自然ではない。
つまり、
>そこでラハブは綱をもって彼らを窓からつりおろした。
の網を「網梯子」と考えて、
>2:15そこでラハブは網梯子をもって彼らを窓からつりおろした。その家が町の城壁の上に建っていて、彼女はその城壁の上に住んでいたからである。
と訳せば、この節に「城壁と梯子」の両方がある。
ならば、
ノストラダムスは「壁に梯子」で「このヨシュア記2:15 を暗示した、ここを伏線にした」、
と考えてもいい訳だ。
だが、これだけではノストラダムスの3-50の4行目
>壁に梯子、都市は後悔する。
の「壁に梯子」の意味は解らないだろう。
というのは、「壁に梯子」といっても、ノストラダムスはこの一節だけを伏線として使っているのではなくて、このヨシュア記のエリコ攻略というストーリー全体の預言的意味の中における象徴としてこの「壁に梯子」という語をここに置いたからだ。
これはそう単純ではなくて、かなり深くて大きな意味が隠されている。
だから、まず、ヨシュア記の中のエリコ攻略という話全体の預言的意味象徴的意味を理解した上で、そのストーリーの中でこの一節がどういう意味を持っているのか?
という位置付けを理解しなければならないのである。
その説明はまた長くなるので次回に。